灰色の棚

適当な話を適当に書くので、適当に見ていってください

不平不満なんて持っていないつもりだった


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私は不平とか、不満とか、そういうものを感じることが少ない、と本気で思っている。
けど、どうも他人が私を見ると、不満をいっぱい持っている人に映るようだと、最近気付かされた。

私が言う「こうなればいいのでは」は、そのほとんどが「不満」ではなく「気付き」だ。
嫌だから変えたい、のではなく、こうだったらいいという人いるのでは、という思い。
だが、その違いを人は理解してくれないし、理解してもらえる伝え方が私には出来ないようで。

私自身がこだわって、ここが嫌だ、と思っていることは非常に少ないと思っているが、集団なり行為なり、見ていれば改善点のひとつやふたつは思いつく。
それで、改善点を挙げろ、何か気づいたことはないか、と水を向けられれば、伝える場合もある。
しかし、そこで伝えると「私が不満を持っている」ということになるらしい。そんなつもりはなくても、だ。

どうすれば、認識のズレを生じさせずにいられるか、考えているが、いまひとついい方法が思いつかない。
気づいたことを出せと言うのは私ではなく、私は答えただけだ。押し付けているならやめるが、聞かれて答えないのもどうなのかと思う。

となると、聞かれたら当り障りのないことだけを言う、というのが正解なのだろうか。
気づいていて、誰かが楽になったりする可能性があることでも、言わずに他のどうでもいいことを言う?
もしくは、不満を持っていると思われることを許容することか。私の認識とはズレていても。

正直な話、どちらもおそらく出来ない。
ごまかしをすることや、誤解を受けたままにすることが、最大の不満になるからだ。
ではその不満を持ったままいけというのが正論なのかもしれないが、ほぼ確実に支障が出るし、これまでにも出ている。

こんなことを考えていると、私は社会の中で生きることに向いていないのかもしれないなぁと思う。
嫌なもの、不可能なことが、数は多くないがはっきりしていること。それらが、普通に生きることを邪魔している。

こちらに裏なんて無いのだし、素直に言ったことだけを受け取ってもらえれば、私はいい駒だと思うのだけど。
上手く使ってもらえれば、人以上の働きを返すという気概と自信はあるのだけれど。
そんなもの、求めてはいけないのだろう。

不平不満なんてほとんど持っていない、そう思うのだけど。
私は、生きづらい。どうやって生きていけばいいのだろうか。