灰色の棚

適当な話を適当に書くので、適当に見ていってください

自分なら怒らないことで相手が怒るのではと思うのは、他人を信じていないということかな


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例えば、ブログを読んで言及するとか、例えば、感想を言うとか、例えば、何か話しかけるとか。
そういう時に、私はどうも、不快な思いをさせないだろうか、怒られないだろうか、と身構えてしまう。

自分が同じことをされたら、きっと喜ぶだろうということでも、そう考えることが多い。
そして躊躇して、本当に動けるのは3回に1回くらいだ。

そんなことについて、考えてみたいと思う。

相手のことを知らないからだろうか

こうなるかもしれない、と悪い方に考えるということは、相手のことをよく分かっていないから起こる気もする。
この人ならこれは喜んでくれるはず、などという推測が立たないということ。
よく知った相手なら、ある程度は推測を立てて動けるが、知らない場合は何が起こるかわからない。

普通に声をかけたら、怒声を返される可能性だって、0ではない。
褒めているつもりがそう受け取られず、険悪な感じになるかもしれない。

相手のことを知らないから、躊躇するというのもあると思う。

他人を信じていないからだろうか

自分なら怒らないが、他人はどうか分からない、というのはある意味「慎重」で、ある意味「他人を信じていないということ」だと思う。

人も自分と同じだろうと過度に思い込むのはやめた方がいいと思うが、逆も極端だとどうかと思う。
そして、私はやや極端な気がする。人は自分と違う、何考えてるかわからない、という気持ちが内心強いのかもしれない。

今までの人間関係などを振り返っても、理解できない人とぶつかったことはそれほどないと思うが、なぜだろう。
怖がりで、慎重な性格がそうさせるのだろうか。

もう少しだけ人を信じてみてもいいのではないかとも思う。
あまりやると、手痛いしっぺ返しを食らいそうなので、ほどほどにだが。

楽観的に動いても、実はなんとかなるのでは?

私は悲観的に過ぎると思う。最悪を想定して動くことが多いような気がしている。
だが、それでは自分から動くことがなかなかできない。

「世の中、だいたいのことはなんとかなる」と、これまでの人生を振り返って思う。
そして、「どうにもならないことは、何をどう考えてもどうにもならない」とも。

それならば、少しくらいい楽観的に動いてもいいのかもな、と思う。
考え方の問題なので、すぐにさっと変えるというのも難しいが、意識する程度ならできるだろうと思う。


人間関係、交流、そういうのは難しい。
うまくいけばすごく楽しいし、ためになるが、悲しい思いをしたり、こじれて無くなる可能性もある。

難しいが、少しポジティブに、少しアクティブに動きたいと思う。
そうして、自分の見識を少しずつでも広げ、交流の輪を広げていきたい。

というわけで、気が向いたら声をかけることもあるかもしれない。
その時はどうか、適当に付き合っていただきたいと思う。