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灰色の棚

適当な話を適当に書くので、適当に見ていってください

「できる」人は「できない」人のことを理解し得ないのかもしれない

考えた 考えた-思索


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 人はそれぞれ、できることとできないことを持っていると思います。

 できるという中にも無限に段階がありますが、「できない」と「それ以外(できる)」という2つに分けて、「お互いの理解」というか「できる側のできない側についての理解」について考えてみたいと思います。

 いつものごとく考えながら書いてみます。では、いってみよー。

できる人はできない人を理解できない?

 私が考えたのは、タイトルの通り「(何かを)できる人は(それを)できない人のことを理解し得ないのでは」ということです。

 できるできないというのは、なんでもできる・なにもできないとかいう話ではなく、例えばプログラミングとか、文章を書くこととか、人と会話することとか、普通に生きることとか、そういう個別の事柄です。

 何らかの技能を持った人は、その技能を持たない人のことを理解できるのかな、という話ですね。あ、理解とは「できないということ」とかについてですね。別にその人の何も理解出来っこないとか言いたいわけじゃないです。


 できる人と、できない人の両方を見ていろいろ考えてみたいと思います。

できる人はできない時期もあったから理解できると思いがち?

 生まれた瞬間からプログラミングが出来る人はおそらく居ません。

 で、生きてきたどこかで身につけている以上は同じようなことをすれば他の人にも身につけられるはずと考える人、多いんじゃないかと思います。

 できないのは分かった上で自分の方法をやればいいというように、自分は理解した上で提案できると考えられる場合って多いんじゃないでしょうか。


 でも、それって本当に理解できているのでしょうか。その提案は絶対に正しいのでしょうか。

 私はそのあたりに疑問を持っています。

できない人にはパターンがある?

 できない人を見た時、大きく分けて2パターンあるように思います。「やればできる」と「やれそうにない」です。

 やればできる人は、隠れ「できる人」です。ただやってないだけなので、できる人の助言で伸びられます。

 やれそうにない人は、現時点では本当に「できない人」です。やるという行為が難しいので、何を言われてもそれを試すことが出来ません。


 やれそうにない人は、何かのきっかけでやればできる人になる可能性を残していると思います。ですが、逆に言えば何かのきっかけがないとできません。

 そのきっかけに「できる人からの声掛け」がなればいいのですが、そうでなければただ理解されないだけ、になるのではないかと考えました。

自分ができたから人もできると決め付けるのはどうなのだろう

 自分にできたから人もできるという決め付け、私はあまり好きでありません。もちろんできる可能性もありますが、できない可能性も同様にあると思います。


 例えばオリンピックで金メダルをとった人が「こういう練習をすれば誰でも金メダルが取れます!」と言っても「そうじゃないだろう」と思いませんか?

 では、「こうやって勉強すれば誰でも○○大学に入学できます」はどうでしょう。「こういう訓練をすれば誰でもコミュニケーションで困らなくなります」は?

 これらは程度の問題で、難易度が下がるほどに達成できる人は増えると思います。ですが、難易度が高かった時にできない人が存在したように、どれだけ難易度を下げてもいくらかは出来ない人が存在するのではないでしょうか。


 難しいことで「自分ができたから人もできる」と考えるのは、自分を馬鹿にしすぎです。あなただからできた可能性を考えてみてはどうでしょう。

 易しいことで「自分ができた方法で人もできる」と考えるのは、一見正しそうに見えますが絶対ではありません。人は想定を超えてきます。言う人は選ぶ必要があるでしょう。


 1万人のうち1万人ができること、というのはそうそう無いと思います。あなたが「ごく当たり前」と感じることが「全く当たり前でない」人、多分居ます。

 そんな感じで、できない人が存在する可能性を考えたほうがいいのではということ、できると決め付けるのはよくないのではということを考えました。

できそうにないからとできないと跳ね除けるのはどうなのだろう

 では、自分ができないと思う側が「できるってのはできたやつだから言えることだ」と跳ね除けるのが絶対に正しいかというと、そうも思いません。

 「できない」と判断する必要がでてくることもありますが、どこで判断するかというのはかなり難しい問題です。少なくとも、できそうにないと最初に思った時に判断していいかというと、早過ぎると思います。


 「できなくていい」と「やりたくない」と思っているならば、跳ね除けるのも構わないかもしれません。でも、もし「できたほうがいい」「やりたい」と思っているなら、言われたことを試してみることも必要かもしれません。

 できそうにないことをあれこれ言われたり無理な負荷をかけることは、喜ばしいことじゃないし苦痛が伴います。でも、できるようになりたいなら、引き受けなければならない苦痛もあると思います。

 苦痛を引き受けても必ず出来るというわけではありませんし引き受けるのは自分なわけですから、試すかは考えて選んでいいと思います。でも、完全に諦めているわけでもなく、やりたいと思うなら。跳ね除けるのは得策ではないように思います。


 自分がどうしてもできないことを、「やればできるだろやれよ」と言われることは非常に苦しいです。「やったよ、でもできねぇんだよ」と言いたくなる場合があるのも分かるし、言ってもいいと思います。

 でも、それが理解されない可能性があるのも事実です。どうにかなって欲しいし、認めたくもないけど、現状そんなことはよくあります。

 どうしても理解されないなら、有耶無耶にするなりやりすごすのも、お互いのためになるのかもしれないなと考えました。

できる人はできない人を理解できない?

 どこかの社長が「無理というのは嘘つきの言葉だ」みたいなことを言っていた気がしますし、「無理にでもやればできるだろう、できないということはありえない」という人もいるかもしれません。

 でも、それってできる人のかなり強引な考えだと思います。できないと思っている人も、それこそ鞭打って追い立てれば1度2度できること、あるかもしれません。しかし、それはできたといえるでしょうか。そしてそれが続くでしょうか。


 1回できれば自信になってそれ以降できるようになることなら、そんなやり方も絶対なしではないかもしれません。命を賭けるつもりでやる気なら、いいのかもしれません。

 でも、続けることが必要なことだとか結果を出す必要があることだと、「できるようにならない」か「やっぱりできない」かだと思います。最終的には逃げ場を失って、より悪い状態になるのが目に見えているように思えます。


 できる人はできない人を理解し得ないかもしれない。というかそもそも人のことを正しく理解するなんて不可能なんだし、「できる」と決めつけたりせずその人のことを観察したり想像していく必要があるのかもしれない。と考えました。

おわりに

 今回の記事は「できない」人の側からの意見みたいなものが多くなった気がしますが、そもそもこの記事を書くきっかけになったのは逆視点(できる側)からの「分からない」という思いでした。

 私は基本的に勉強で苦労したことが無いので(めちゃくちゃできたわけでもなく、頂点を目指す気がなかった範囲でですが)、勉強ができないという状況が分からないなと思ったのがスタートです。


 人それぞれ、できることできないこと、あると思います。なのである事柄ではできる人として相手を見て、別の事柄ではできない人として相手から見られるという状態が普通にあると思います。

 でも、できない側になることがあるからできる側の時に配慮できるかといえば、なかなか難しそうに感じました。「なぜできないのだろう?」と、想像がつかない場合が多いのではないかと。私だけかもしれませんけどね。


 できる人は「人もできるはず」と決めつけないこと。

 できない人は「自分にはできない」と諦める前にできる限りは動くこと。


 そんなことを気をつけていきたいなと、今回考えて思いました。

 では、今回はこのへんで。おわり!