自分の決断によって行われたことならば、流された結果ではない
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昨日は節分だった。
節分といえば、豆まきと「恵方巻き」。
恵方巻きはもともと関西のもので、コンビニが流行らせた、みたいなことが言われている。
今回、考えたいのはその是非や詳細ではない。
たまに出てくる、
「そんな文化はここにはないのに、商業的な思惑に流されやがって」
的な意見についてである。
思惑があった、それに乗った、何が悪い?
そもそも、流されるのがなぜいけないのか、ということもある。
商業的にブームを作ろうとする試みがあることは、否定されることだろうか。
そして、お祭りのようにそれを楽しむことは、悪だろうか。
私は違うと考える。
もちろん、嘘八百並べてさも昔からあったかのような行事にしてしまうのは、危険だ。
だが、お互い分かっていて楽しむのは、何ら悪くないのではないか。
そもそも、どんな祭りだって、どんな風習だって、この世の起こりからあったわけではない。
例えば、土用の丑の日にうなぎを食べる風習は、うなぎ屋が広めたという話もある。そんなもんだ。
200年経っていれば善で、15年なら悪、というのは、よく分からない。
そもそも、流されているのか
流される、というのは、やりたくもないのにやるとかそういうことではないだろうか。
周りがやっているから嫌々やるなら、流されているだろう。だが、恵方巻きは?
やりたくないならやらなければいいのだ。
自分で、せっかくだから食べようと思ったのなら、それは決断だ。
人の決断にぐちゃぐちゃ言うのは、ただのおせっかいではないか。
なぜか苦々しく思うならば、それもよい。だが、他人の行為に否定的な意見をぶつけることが肯定されるような理由にはならないと思う。
楽しめるなら、それでいい。
そんな考え方がたしかにある。
宗教の壁など軽く通り越して、イベントをイベントして消費する。それもひとつの文化だろう。
そんな文化があるのに、文化がないからせっかくのイベントをスルーする、そんなことがあるだろうか。
やりたくないなら、やらなければいい。
やりたいなら、やればいい。
ただそれだけなのに、わざわざ人の行為に口出して、終わったイベントを嫌な記憶に変えるのはやめて欲しい。
あなたの考えを否定する気もないので、私の行動も否定しないでいただきたい。
この考え、間違っていますか?