灰色の棚

適当な話を適当に書くので、適当に見ていってください

他人を引きずり落としても、自分が高くなるわけじゃない


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タイトルは、ある意味正しく、ある意味間違っていると思う。
相対的には高くなるし、絶対的には高くならないからだ。

綺麗事と言われるかもしれないが、本心な、私の考えを書いてみたい。

順位を上げたいのならば、上を下ろす手段もある

行動というのは、目的にそっているべきだろうと思う。

自分をより高みに上げようと思った時、その目的が順位を上げることならば、上を下ろす手段もあるだろう。
ただし、集団がある程度小さく、下ろした数の順位上昇で満足できる場合は、である。

例えば、大学受験の時とかに、周りにやたら競争心を燃やす人がいる。
悪いとは思わないが、意味があるのか疑問に思うことが多かった。
なぜなら、受験は万単位の人の争いで、周りの数人との戦いではないからだ。

もちろん、周りに勝つということは、そのレベルの大勢の人に勝つということでもある。
なので、自分を高めて勝つのには意味があるし、とてもいいと思う。
だが、周りを邪魔して勝つような方法には、首を傾げざるをえない。

クラスのテストで1位を取るために、上を妨害するのは、その善悪を置いておけば、ありかもしれない。
だが、全国のテストで上位を取るために、周りの人を妨害するのは、意味が薄すぎるだろうと思う。

悪事に対して、過剰に攻撃することが正義だろうか

自分が願望より低い位置にいて、その位置を上げたいならば、自分を高めるしか無い。
目的が自分を高めることなのに、他人を蹴落とそうとするのは、時間の無駄だ。

それは、上にいた人がなにか悪どい手段を使っていたような場合でも同じだ。
詐欺的な方法で高みに居た人を見つけたからといって、過剰に叩きに行くのは、自分を高めるという意味では、意味が薄い。
放っておいても落ちていく人を、わざわざ叩きに行くのは無駄が多い。

告発と、非難まではいいだろう。むしろ、すべきだろうと思う。
だが、自体が明るみに出た人に対して攻撃しに出かけるのには、意味があるだろうか。

悪いことをしたら叩かれる、というのは、ある程度までならば社会を維持するために必要だろう。
教育的にも、意味のあることかもしれない。
だが、過剰な攻撃は逆効果な場合もあると思う。悪事を告発する人が減ったり、悪用する人が出てくるだろうことが予想されるからだ。

絶対点を上げたいならば、自分を高めるしか無い

他人への攻撃は、自分の成長には直接つながらない。
目的があるならば、攻撃に費やす時間を、もっと有意義なことに使うべきだ。

目的がないとしても、悪事に対して過剰な制裁を与えることは、悪い影響が出る場合があるということを認識するべきだ。
周りを囲んで袋叩きにしておいて、「自分は一発しか殴っていない」というのは通用しないと思うべきではないだろうか。

他人を攻撃することは、自分が高くなるような気になれる、悪い薬だ。
自分を高めるには、自分を変化させたり鍛えるしか無い。

どんな罪でも即死刑な社会にはなってほしくない

悪いことをした人にはなにをやってもいい、とか。
バカなことをしたのだから、社会的に殺されても文句は言えない、というような。

そんな、どんな罪でも即死刑、みたいな社会は嫌だなぁと思う。

悪いことをした人を擁護したり、バカなことを推奨するわけではない。
ちょっとしたミスや、冤罪によって殺される人が減って欲しいと、罪に見合わない罰によって立ち直れなくなる人が出ないで欲しいと、思うのだ。


高い人を攻撃しても、自分が高くなるわけではない。間違った人を攻撃しても、自分が正しいということにはつながらない。
また、行き過ぎた攻撃は、私的制裁、すなわちリンチ、集団暴行である。
そのことを、少しだけでいいから、頭に入れてほしいなと思うことがある、という話。