本当の○○の話。どちらが裏でどちらが表か、決めるのは誰?
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本当の私はこんなもんじゃない! に対する疑問を記事にしたいと思います。
私自身「本当の私はこうじゃない」と思いたい気持ちはすごくあるんですが、違和感も感じるので。
それでは、いってみよー。
明らかな「嘘」が無いときの「本当」は信用ならない気が
「私の本当の顔はこうじゃない」という一文があったとして。嘘の顔と言える何かがあるならば、そうなのかもねと思います。「嘘」に対する「本当」と、対になっているのならば。
ですが、嘘の顔がないとすれば、「今のそれが本当なのでは? 少なくとも今は」と思う気もします。
本当の力、本当の顔、本当の心、本当の私。
いろいろ言えますし言いたくなる時もありますが、「本当はあるんだよ」と言っていて「本当にあった」ことって少ない気がします。皆無じゃないとは思うけど。
あるなら出せばいいのでは、という話につながる場面も多いですしね。厳しい意見ではありますが……。
裏と表、決めるのは誰?
例えば、頑張った時の力と、頑張っていない時の力。どちらが本当でどちらが嘘かというのは、誰が決めるのでしょうか。
両方出せるなら、自分で決めてもいいと思います。頑張っている時の私が真の私だ! と思うのも、きっと悪くない。
ですが、私の本当の力はこんな程度じゃない、といいつつその「こんな程度じゃない力」が出せないのならば、今出せている力こそが本当の力ではないでしょうか。
自分の信じる自分と、他人から見える自分。どちらが表でどちらが裏なのか。誰が決めるのかなと思います。
書いててきついけど、きっとそうなんじゃないかと
本当の自分はこうじゃないんだと思って、今を打破するために頑張るというのもいいと思います。そういう方向で力が出せるなら、それもいいと。
でも、本当の自分はこうじゃないと思いながらも「本当の自分」に近づけないなら、「本当」なんて捨ててしまったほうがいいのかもしれないと思います。
数カ月前に似たようなことを書いて、やる気を起こそうとした気がしますけどね。現実を見ないとという話です。
それしかないなら、それをやるしかない。
なんの言葉だったか忘れましたが、記憶に残っています。今の私は、「それ」すら見えていない現状ですが……。何とかしたいなと思います。
おわりに
最初の方は自分に言い聞かせる感じで強めな表現になった気もしますが、「本当なんて嘘だろ捨ててしまえ」だけが正しいとは思いません。
本当だろうが嘘だろうが、それで頑張れるなら。それでより良い方向に進めそうならそれでいいと思います。
ただ、現実逃避だったり諦めにつながるなら、捨ててしまいたいなと私は思いました。捨てたほうがいいとも捨てるべきともいいません。私は思う、ってだけです。
真面目風な記事とかを書こうとか書きたいって思ってるわけじゃないんですが、準備なしに記事を書こうとすると頭の中から出すしか無くて。考えたこと的な記事はこういう記事が多くなります。
ネタは準備が必要なことが多いからな―。難しいですね!
では、今回はこのへんで。おわり!