灰色の棚

適当な話を適当に書くので、適当に見ていってください

ブログを書く適当さ、ブログを読む適当さ。みんな、余裕を持とう!


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私は適当な人間だ。
最後の一字まで根を詰めて記事を書く、などというようなことは苦手だ。

だが、適当であるということは、悪いことだろうか。
場合によるというのが答えな気もするが、悪いことばかりではないと思う。

「適当」について、考えてみたい。

適当って、なんだ?

適当という言葉、使われ方が複数ある。

まず、ネガティブな意味に捉えられやすい、適当。
大雑把とか、そういう方向の意味だ。こちらの方が、よく用いられている気がする。

あとは、ポジティブな方向での、適当。
良い感じに、みたいな意味。適する、という意味。たまに用いられると思う。

この記事の一言目で使った「適当」は、前者の意味だ。
大雑把、細かくない、そんなイメージで使った。
この記事においては、適当と書いたら、基本的には前者だと思っていただきたい。後者の場合はその場でそう書こうと思う。

適当という言葉の時点で、大雑把だ。用法が広がってきたとか、そういう都合だと思うが。

適当さ=余裕?

適当さというのは、余裕と言い換えられると思う。
適当な状態というのは、まだ改善の余地や他のものを入れるスペースが残っている状態。余裕があるということではないだろうか。

そうなると、適当さが無いとは、余裕が無いというのと同じではないだろうか。
程よい大雑把さが無いというのは、苦しいほどに詰まっているということ。
余裕が無い、と言えると考える。

ブログを書く適当さ、ブログを見る適当さ

ブログの話に繋げたい。

私は、ブログには適当さがほしいと思う。
知識だけを詰め込んで、理論でガチガチに固めたブログも悪いとは思わないが、読みたいとも思わない。
真面目だけど、時にクスっと笑えるとか、想像の翼を働かせる余地があるとか、そういう余裕があるブログの方が好きだ。

ブログの書きてとしては、できれば読む人には適当に読んで欲しいと思う。
真剣に読まれるのも嬉しいが、余裕がなさすぎるのも、やや困る。こちらも隙を作らないように書いているわけではないのだし、矛盾やあらもあるかもしれない。
突っ込みは歓迎するが、過度に責められても、なんというか、困る。

適当に書いたブログを適当に読む、そのくらいの空気感が私は好きだし、このブログはそのくらいの空気感で行きたいと思っている。
今、ブログのサブタイトル部分に、
「適当な話を陳列するので、適当に見ていってください」
と書いているのは、そういうことだ。

みんな、余裕を持とう!

ちょっとのことでいきなり怒り出す人を見ると、余裕が無いんだろうなと思う。

状況によっては仕方がないし、そういう時もあるよなとは思うけど、常にそうだとちょっと困る。
いつもピリピリしたひととは付き合いづらいし、目をつけられたくないなと思う。

みんなが余裕を持っていて、小さなことは許しあえる。そんな繋がりがあるといいなと思う。
ちょっと間違ったとか、言い回しが勘違いされやすかったとか、そんなこと誰にだってあるのだし、揚げ足取って攻撃しまくるようなのは、好きじゃない。

ピリピリしているのは、余裕が無いから、余裕が無いのは、疲れているからだろうか。
何かを見てイラッときたら、深呼吸して心を落ち着けてみよう。
そのままの勢いで攻撃するのではなく、一晩置いてちょっと冷静になってもう一度見てみたら、どうだろう?

私はちょっと余裕を持ち過ぎというか、ぼんやりし過ぎな気もするが。
みんな、余裕を持とう!
(誰も彼も余裕が足りない、と思っているわけじゃない。たまに適当を許してくれなさそうな人がいるなぁと思うだけ)