灰色の棚

適当な話を適当に書くので、適当に見ていってください

この社会は攻め手有利にできている?


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 リアルでもネットでも、攻撃してくる人というのはいると思います。些細なことがきっかけで敵視されたり、誤解が誤解を産んで標的にされたりして、攻撃を受けること。できるだけ避けたいですが、避けられない時もあります。

 私は攻撃するのもされるのも嫌なので、自分からは「攻撃出来そうだ」とおもってもなるだけしないことにしていますが、それでも「攻撃出来そうだ」と思うことはあるんです。


 今回は「攻撃する側が有利にできているよなぁ」ということについて書いてみます。間違っているかもしれませんが、とりあえず今の私の思っていることです。

 では、いってみよー。

攻め手とは

 この記事中でよく使うことになりそうな「攻め手」という言葉は、「攻撃する人」という意味です。攻撃とは、精神的圧力や周りの人を使った圧力などのことで、腕力的な暴力ではないことが多いと思います。

 いじめる人、妨害する人、悪評を広める人、蹴落とそうとする人、など。そういう人のことを「攻め手」と書いていきます。


 ここまでの書き方でも伝わるかなとは思いますが、「攻め手」を賛美しそれを勧める意図はありません。苦々しく思っているという方が近いと思います。

 では、言葉を簡単に説明したところで、入っていきましょう。

地の利 時の利 数の利

 攻め手が有利だなと思う理由のひとつに、いろんなことの決定権が攻め手側にあるということがあります。

 地の利、時の利、数の利という言葉で説明します。本当の言葉の意味とはずれているかもですが、許していただきたく思います。説明に使いたかったんです……。


 地の利とは、どこでやるかという意味です。攻撃をする場所は、攻め手側が選べます。正義感の強そうな人の前ではしないとか、いじめっこ気質のありそうな人の前でやって巻き込むとか、そういうことが可能です。

 逆に、攻撃される側(以降守り手)はどこで攻撃されるかをほとんど選べません。出来る事といえば、危なそうなところには近づかないことくらい。それも難しい場合は多いです。


 時の利とは、いつやるかという意味です。攻撃タイミングも攻め手が選べますよね。一番効きそうな時を、対象が疲れていたり弱っている時を狙うこともできるかもしれません。

 守り手はいつ攻撃にさらされるか分かりません。対象になっていると気づいていたら、いつ来るかと不安になるかもしれません。それだけでも、攻め手側が有利に見えませんか?


 数の利は上2つとはちょっと違う気がしますが、対象は攻め手が選べて、攻め手は一人とは限らないということです。1人を5人で攻撃してもいいわけです。対象は攻め手が選べるので、無意味に増やす必要もありません。

 攻撃に賛同する人を巻き込み巻き込み進めれば、多数vs.少数の構図になってより攻撃力が上がります。守り手側からしたら、包囲網が出来てしまえばどうしようもなさそうに見えるでしょう。この点でも攻め手が有利だと思います。

内容決定も攻め手しだい

 攻撃と言っても、内容は様々です。シカト、脅し、妨害、悪評を広める、などなど。嫌になるくらい、いろんな手があります。

 何をするかも攻め手が選べます。危険な手を避けることも、有効な手を探すこともできるわけです。人を巻き込みすぎて話が大きくなったりすると制御が効かなくなることもありますが、それでも守り手よりは選択権があります。


 いつ、どこで、だれが、なにをするか、全部「攻め手」が選べるわけです。これが、私が攻め手有利だと思う理由の半分です。

攻め手のリスク

 では、もう半分の理由は何かというと、リスクが小さいということです。守り手に与えうるダメージに対して、攻め手のリスクは非常に小さいように思えます。

 もちろん、下手を打って最大の悪者になってしまえば、少なくない損害をこうむる可能性だってあります。ですが、そうなった時にはすでに守り手に多大なダメージを与えている場合も多いです。


 攻め手はうまくやれば、ほぼノーリスクで対象にダメージを与えられる可能性があります。守り手側を悪者にできてしまえばいいわけです。悪者を攻撃するのは一見すると正義ですから、非難されにくいです。

 もちろん、一部からは危険視されたり避けられることもあるかもしれませんが、守り手側に与えられるダメージに対してそれは小さなリスクと言えると思います。調子に乗らなければ、連発したり対象選びに失敗しなければ、ほぼ無視できるリスクではないかと思えます。


 守り手が致命的なダメージを受ける可能性があることに対して、攻め手にかかるリスクは非常に小さく思えます。攻め手はローリスク・ハイリターンで動けるわけです。

 これが、攻め手有利だと思う理由のもう半分です。

うまい人はうまい

 意識しての人も意識せずにの人もいると思いますが、人を攻撃することが非常にうまい人って居ると思います。

 そういう人は「うまい人」だと気づかせない(気づかせる人はあまりうまくない)ので、あの人攻撃するのうまいよねと話に上がったりはしにくいですが、存在はしていると思います。みんなの共通の敵を作るのがうまい人、考えてみると居ませんか?


 自分が気に食わない人を、みんなの敵に仕立てあげて排除する。その時、「自分が気に食わない」という理由を「あの人のこの部分は常識的に受け入れられない」などにずらしていることも多い印象があります。

 言動に少しも隙がない人なんて、そう居ないです。少しの隙を広げて広げて、明確な悪者に、みんなの敵にして攻撃する。そういうのがうまい人、いるんですよね。


 うまい人うまい人と言ってきましたが、そういう人が自分がそうだと自覚しているかといえば、そうでないパターンも多いと思います。本人としては、変な人の変な点を指摘しているだけ、ということだってあるでしょう。

 あなたは自分がそうでないと言えますか? 私は気をつけているつもりですが、それでも自信がありません。

守り手に出来ることはないのか

 攻め手の話ばかりしてきましたが、守り手に出来ることはないのでしょうか。考えついたのは「味方を作ること」でした。


 攻撃を受けている時、本人がひとりで対処しようとしても上手くいかないことが多いです。藻掻けば藻掻くほど、周りに「攻撃されている人」と認識され悪い流れになっていく場合があります。

 ではどうすればいいのか考えてみると、他よりは光が見える行為に「味方を作ること」があると思います。「それは違うんじゃないか」と言える味方が居ると、場がひっくり返る可能性(そう高くないけど)もありますし、攻撃による精神的ダメージがかなり軽減されそうです。


 味方を作るのも、うまくやらないと被害者を増やすだけになります。が、正義感が強くて口も強いような人(場合によっては攻め手として強そうな人)を味方に付けられると心強いです。

 そういう人が近くにいて、攻め手に属していなくて、味方になってくれるってすごく運が必要ですが……。

 他に守り手にできることってあるでしょうか。考えていますが、あまり有効な手が思いつきません。

守るために攻める

 ひとつ、攻められてからでは遅いですがある程度有効な手はあります。「攻め手」であり続けるということです。

 子どものいじめの原因のひとつだろうなとも思うのですが、これってその場しのぎ的にはかなり有効です。共通の敵が居て、それに目がいっているうちは自分に目が向かないんです。あとは、「こいつに手を出すと自分がやられかねない」と思わせられれば、自分が被害にあいにくくなります。


 攻めることが楽しいから、目障りな誰かを消すために、攻めるだけが攻める側の原因ではないということです。上で書いてきた「うまい人」「攻め手」というのは基本的に能動的な攻め手のことでしたが、ある意味受動的な攻め手も存在しえます。

 自分が攻められないために攻める。攻撃されれば、心や時間に莫大なダメージを受ける可能性があるわけです。それを回避するために、攻め手であり続けようとするって馬鹿げた行為でしょうか?

それで楽しくいられるのか

 いじめられたくないから、いじめる側になる。

 私はあまり好きな考え方ではないし、そう思って動くことはないと思いますが、ひとつの手段だろうなとは思います。そして、それが楽しくないかといえば、そうでもないだろうとも。


 「人を傷つけて、それで楽しく過ごせるの?」ってお話とかで出てきそうな台詞ですが、正直な話「楽しいよ」と答えられて全然おかしくないと思います。攻撃自体を楽しむこともできるでしょうし、攻撃されていないことで楽しさを探すこともできるでしょう。

 人って自分以外の人の痛みにはすごく鈍感になれると思います。誰かの犠牲の上に成り立っているからといって、自分が幸せになれないなどということはあまり無い気がします。最初は心が痛むかもしれないけど、最初だけです。すぐに慣れます。そういうものです。


 「人の嫌がることをしない」いい言葉です。私の行動指針のひとつでもありますし、みんながそうであれば少しは優しい社会にならないかなと思います。

 ですが、そんなことを言っていられるのは恐怖がない人、本当の痛みを知らない人だと言うことも出来るかもしれません。自分が攻撃に晒せれたことがあって、今そうでなくて、それを回避する手段を知っているのに、手を出さずにいられますか?

 「それでも人が嫌がることはしないさ!」と即座に断言できる人がいたら、想像力が足らないと思います。さっき、「人って自分以外の人の痛みにはすごく鈍感になれる」と書きましたが、これって「自分の痛みには敏感だ」ということです。悩みに悩んで、それを選ばないというのならば勇気のある決断だと思いますが、即断言されるとここぞという時に即撤回されそうな気がします。まぁ、ここは私の勝手な考えだし、私こそ想像力が足りないのかもしれませんけどね。

真なる平和はどこに

 ここまでの話、読みかえればいろんなことに関係があります。特にいじめ問題や戦争関係とはくっつけられそうに思います。


 子どもがいじめで自殺したことがニュースになった時、子どものいじめが社会問題として取り上げられます。ニュースなどでいろんなことが言われますが、なかなかピンとくるものはありません。

 まず、子どもの問題として取り上げるのが間違っているように思います。いじめは子どもだけの問題ではないです。そして、いじめる側だけの問題というのも違います。いじめられる側に問題があると言いたいわけでなく(私はいじめられる側には基本的に非はないだろうという考えの人です)、構造的な問題があるということです。

 攻め手が有利であるからというよりは、守り手がものすごく不利であることが問題だと思います。


 戦争についてはあまり詳しくないので細かいことは書きませんが、近い問題なのではないかと思っています。

 攻め手の勝利条件がどうであれ、守り手の敗北条件が「ひとりでも死ぬこと」だとしたらどうでしょう。守り手が不利すぎると思いませんか。

 ひとりも殺されないためには、「そもそも守り手にならない」ことが必要だとなるでしょう。そのために出来ることはと考えだすと、いろいろと難しい問題だと再認識できる気がします。


 私は攻撃するのもされるのも嫌ですし、平和がいいなと思います。本当は自分の見える範囲も見えない範囲も、全部平和だといいなと思います。

 ですが、守るべきものができたら「自分の周りだけでも」平和であろうとするかもしれません。その時、他の誰も攻撃しないかというと自信がありません。守るべきものがあって、守る手段があるのに採らないことはないと思います。


 真なる平和はどこにあるのでしょうか。どうすれば、そうあれるのでしょうか?

おわりに

 攻撃する側が有利であること、攻撃される側が不利であることからいろいろと考えてみました。

 異論反論いろいろ出てくるかなと思いますが、どうでしょうか。ご意見はやわらかな言葉で伝えていただけると幸いです。そちらのほうがすぐに受け取りやすいので。


 再度念を押しておきますが、「攻め手」であることを賛美するつもりはありません。「つもりがなくてもそうなっているよ!」と言われたら反省しますが、筆者にそういう考えはないということは書いておきます。


 もう少し守り手の不利が減って、攻め手に回る必要など無いと胸を張って言える状況になればいいなと思います。もし今だってそうなのだというご意見がありましたら、聞かせていただきたいです。

 久々に真面目な話を書いた気がしますが、気づいたら5400文字を突破していました。いやー、よく書いたな。


 最後までお読みいただきありがとうございました。

 では、今回はこのへんで。おわり!