逃げ道を用意することは悪いことなのだろうかと言ってみるテスト
はてなブログの今週のお題が「テスト」だということで、ちょっと考えてみました。そして思いついたのが「○○と言ってみるテスト」という言い回しでした。
……ひねくれているのは承知していますが、この勢いで何か書いてみようと思います。
では、いってみよー。
○○と言ってみるテスト
この言い回しは、昔から使われるネット用語の一種、だと思います。
探したら、こんなページもありました。
言ってみただけ、とかそういう逃げ道を作れる言葉として誕生したみたいですが、面白い言い回しなので私は適当に使ってました。「特に意味は無いけどちょっとやってみよう」みたいな使っていた気もします。
と、タイトルのネタ元の紹介と今週のお題の消化をしておきます(何)
で。
考えたいのは、「逃げ道を用意することは悪いことなのだろうか」ということです。
いつものごとく具体例が浮かばないのですが、発言や行動の前に逃げ道を作っておくような行為って、非難されがちな気がしています。
ですが、ほんとうに悪いことなのでしょうか。考えてみます。
やったことには責任をとれという風潮
見出しの付け方的に「そんなことない」とか言い出しそうですが、別に言いません。自分の言葉や行動に責任を取ることは(どう取るかは別として)当然だと思います。
言ったこと行ったことを後から「本心じゃなかった」とか前言を翻すようなことを言い出されると「ハァ?」ってなりますし、やめてくれーと思います。
ですが。逃げ道を作っているということが伝わっている時、それは変節になるのでしょうか。
最初から「こいつ体勢が悪くなると言ってること変えるだろうな」と覗わせるような言葉を使っているのに、その言葉を信じた側に落ち度はないのでしょうか。
と、言ってみますがまぁ苦しいですね。ですが、ここまで書いてちょっと思ったことがありました。
逃げ道を作ることの悪さは"どういう"悪さ?
逃げ道を作ることが善悪の悪であるかは、正直わかりません。そういうことも、ひとつの選択肢なのかもしれないなぁと思います。
ですが、逃げ道を作るようなことをし続けると、信用されなかったり自分の評価を落としたりしそうに感じます。逃げ道を作る行為をする人は、要領や効率が悪いのかなと。
生死がかかっているレベルなら別かもしれませんが、日常生活において「逃げ道を作って責任を逃れようとする」のと「間違っていたら謝って繰り返さないようにする」のとでは、後者の方が後々のことを考えると上だと思います。
責任を逃れる代わりに信用を失うより、失敗を認めてその後信用を勝ち取るほうが、後々プラスに働きそうだと思いますがどうでしょう?
「やってはいけない」ことと「やらないほうがいい」こと。自分の言葉や行動の逃げ道を作ることは、「やらないほうがいい」ことなのかなと思いました。
脱出経路は"作っておいた方がいい"派
ここまでは言葉や行動の逃げ道についてでしたが、ちょっとだけ「どうしようもなさそうなことに対する」逃げ道についても触れておきます。
逃げ道、と言った時にこちらを想像する人もいるかもなと思ったからです。いないかもしれませんが……。
例えば、"どうしても"耐えられないことにぶつかった時にどうするかという話です。戦って死ぬのか逃げて生きるのかなら、私は後者のほうがいいと思うという話です。
この考え方はひとそれぞれでいいとも思いますが、私は生きててなんぼだと思っているので、死ぬほど辛いなら逃げることも視野にいれるべきだと考えます。そういう意味での「逃げ道」は用意しておいたほうがいいと思います。
「逃げるのはいけない、何が何でも戦うべき」という人も居ますし、そうできるのならばぜひやってくださいと思います。ですが、私は「緊急回避は悪でない」という考えを持っているので、人が逃げるのを否定したくないし、むしろ肯定したいです。
どうでもいいところでも常に逃げ続けるのはどうかと思うけど、生死がかかっているなら逃げという選択肢も持つべきかと。そして、その辛い選択をした人を肯定したいと思います。
おわりに
「逃げ道」という言葉だけでも、少なくとも2つの方向がありました。言動を翻すための準備としての逃げ道と、立ち向かえないことから離脱するための「逃げ道」と。
同じ言葉でも使い方や受け取り方は複数あっておかしくない、というのも今回の記事を書いての気づきかなと思いました。
「テスト」という単語からスタートして、いろいろ考えた結果がこれです。テストどこいった……? まぁ、いろいろ考えて面白かったしいいか。
言動を翻す逃げ道を作ることは、後々のプラスに働きそうにないからやめとこう。
どうしようもないことと出会ってしまった時、死ぬくらいなら逃げ道を探してでも生き延びよう。
という感じなことを考えた、今日このごろでした。
では、今回はこのへんで。おわり!
今週のお題「テスト」
気に入った記事をチェックするのにベストなサービスって、無いのかな
ブログを読んで、この記事いいなぁと思うこと、結構ある。
そういう記事は、次の日の記事まとめで紹介したいと思う。
なので、気に入った記事を簡単にまとめておきたいのだが、それが地味に難しい事に気がついた。
そのことについて、書いてみる。
はてなスターを使おうかと思ったが
今は、はてなスターを目印に使っている。
だが、問題が出てきている。
はてなスターが付けられないブログのほうが多い、ということだ。
はてなブログやはてなダイアリーならば、付けられるブログも多い。
しかし、付けられないようにしているブログもあるし、それ以外のサービスでは基本的には付けられない。
これは、厳しい。
はてなブックマークでいいのだろうか
次に、はてなブックマークを思いついた。
だが、はてブには問題点もあると思う。
最近知ったのだが、
「はてなブックマークは記事への肯定の意を表すものだ」
という考え方をする人がいるという点だ。
これまで、興味深ければ、はてブをつけることもあったが、それがしにくくなった。
コメントは余程のことがないと付けないので、無言を肯定と取られるのならば、これまでの条件では、はてブは厳しい。
だが、今回の用途ならば、気にしなくていい気もする。
おすすめということは、肯定だからだ。別に肯定と思われて悪いことはない。
選ぶのには慎重にならざる得ないが、最低限は使えるだろう。
ブックマークの公開・非公開を使い分ければ、肯定以外にも使えるのかもしれないが、間違えそうだし、躊躇してしまう。
そこまでしてはてブに固執する気もない、というのもある。
自分の決断によって行われたことならば、流された結果ではない
昨日は節分だった。
節分といえば、豆まきと「恵方巻き」。
恵方巻きはもともと関西のもので、コンビニが流行らせた、みたいなことが言われている。
今回、考えたいのはその是非や詳細ではない。
たまに出てくる、
「そんな文化はここにはないのに、商業的な思惑に流されやがって」
的な意見についてである。
思惑があった、それに乗った、何が悪い?
そもそも、流されるのがなぜいけないのか、ということもある。
商業的にブームを作ろうとする試みがあることは、否定されることだろうか。
そして、お祭りのようにそれを楽しむことは、悪だろうか。
私は違うと考える。
もちろん、嘘八百並べてさも昔からあったかのような行事にしてしまうのは、危険だ。
だが、お互い分かっていて楽しむのは、何ら悪くないのではないか。
そもそも、どんな祭りだって、どんな風習だって、この世の起こりからあったわけではない。
例えば、土用の丑の日にうなぎを食べる風習は、うなぎ屋が広めたという話もある。そんなもんだ。
200年経っていれば善で、15年なら悪、というのは、よく分からない。
そもそも、流されているのか
流される、というのは、やりたくもないのにやるとかそういうことではないだろうか。
周りがやっているから嫌々やるなら、流されているだろう。だが、恵方巻きは?
やりたくないならやらなければいいのだ。
自分で、せっかくだから食べようと思ったのなら、それは決断だ。
人の決断にぐちゃぐちゃ言うのは、ただのおせっかいではないか。
なぜか苦々しく思うならば、それもよい。だが、他人の行為に否定的な意見をぶつけることが肯定されるような理由にはならないと思う。
楽しめるなら、それでいい。
そんな考え方がたしかにある。
宗教の壁など軽く通り越して、イベントをイベントして消費する。それもひとつの文化だろう。
そんな文化があるのに、文化がないからせっかくのイベントをスルーする、そんなことがあるだろうか。
やりたくないなら、やらなければいい。
やりたいなら、やればいい。
ただそれだけなのに、わざわざ人の行為に口出して、終わったイベントを嫌な記憶に変えるのはやめて欲しい。
あなたの考えを否定する気もないので、私の行動も否定しないでいただきたい。
この考え、間違っていますか?