人から聞いた想像ベースの事柄で安易に他人を判断したくない
「あの人がこんなこと言った」
「あいつにこんなことされた」
他人の行動にビックリしたりイラッとして、上のようなことを言ったり考えること、ありませんか?
私はあります。
では、そういうことを誰かがあなたに話したとして、どういう風に思いますか? その「誰か」がすごく信用している相手だったら、「そうなのか」と思ってしまう気がしませんか?
そういうことについて、ちょっと考えてみたいと思います。では、いってみよー。
あなたがA君から話を聞いて
具体的な例を出してみます。
A君が、一緒に遊んでいたB君に、「お前はもう帰れ」と言われたと怒っているとします。A君は別の場所に移ろうとしていた時にそう言われて、流れで帰ってしまったけど、後から怒りが湧いてきた、とします。
怒っているA君は、「なぜあんなことを言ったのか」「B君に除け者にされた」と怒っています。B君が「お前はもう帰れ」と言ったのも事実です。
これを見てあなたはどう思いますか?
「それはひどい!」と思うとしたら、私はそれが怖いです。「ひどい!」と思うことを否定することはできないけど、ちょっと早くないかなという気がします。
というのも、B君がなぜそう言ったのか全く分からないからです。
純粋に除け者にしたパターンも、もちろんあります。でも、A君の体調が悪そうだけど普通に言っても意固地になりそうで無理矢理でも帰そうとした、とか、A君がCさんにセクハラ発言をし続けていてB君が怒った、とかいうパターンもあります。
A君も、今は怒っていますが、次の日にB君と会って理由を聞いたら納得して、怒りが解消するかもしれません。
あなたが、怒っているA君がする話を聞いて、B君のことを悪く思ったとしたら。後日A君がB君の話を聞いて納得したとして、そのことをあなたが聞かなかったとしたら。あなたは、B君はひどいやつだ、と思い続けることになりませんか?
実際はA君が明らかに悪かったとしても、誰も真相を話してくれなかったら、B君が悪いやつだという印象が残ることになりませんか?
そういう怖さがあると思います。
みんながそうじゃないし、いつもそうじゃない
もちろん、みんながそうだなんて言いません。そういう傾向にある人がいたとしても、いつもそうってわけではないだろうとも思います。
自分はそうはならない特別な人間だ、とも思っていません。というより、自分の中のそういう反応が、そう流れていってしまった経験が怖いと感じているんです。
誰かが何かをやった時、それに対して自分が色々な感情を持つのは自然なことだと思います。あの人のこういうところが嫌いだ、とかいうのはしかたがないことだし、あっていいと思います。
でも、人から聞いたことで他の人の印象を簡単に変えることは、特にその人づての情報が想像からくるものだったりすると、怖いです。私はできるだけ避けたいです。
人づての情報って、悪意が挟まっていてもすごく気づきにくいというのもあります。あの人こうらしいよ、って言う話、誰かが悪意を持って広めようとしている噂かどうか、判断がつきづらいですよね。
私はできるだけ事実ベースで、自分の目で見たことで人を判断したいし、判断されたいです。
おわりに
記事を書いているうちに話がすり替わってしまって、すり替わった方に合わせて序文も大幅に書き換えたので、書きたかったことと違う記事ができました^^;
書いた事自体は私の考えで嘘は混じっていないし、そう思うというところは合っているんですが、どうしてこうなったかな?
最初は「人の行為を想像ベースで判断したくない」ということを書こうとしていたんですけどね。具体例のB君の言葉の裏にはなにか隠れているかもしれないよね、ってことを書こうとして、それました。
ま、いいです。これはこれで。
ちゃんと序文も書き換えたから、おかしな記事にはなってないと思うけど、どうでしょう?
とりあえず今回の話は、「人の評価は自分の目で見たことで、想像でなく事実をもって行うようにしたいな、という話」になりました。
という感じで今回はここまで。おわり!
自分で自分を褒められれば、いろんなことが解決しそう!
「褒める」って、大切だと思います。
人が何かを始めた時、それが止めたいようなことでないならば、褒めた方が絶対いいと思います。
でも、褒めることが得意な人はそう多くない気がします。何をやっても「アタリマエ」、内心ではすごいと思っていたとしても言葉にしない。そんな人が多い印象があります。
「みんなもっと褒めろよ!」と言いたいけど、言ったところでどうにもなりません。他人を変えるのは難しい。
ならば、自分で自分を褒められるようになれば。「褒める」を自給自足できるようになればいいのではと考えました。
そんなことについて、思ったことを書いてみます。では、いってみよー。
どうして褒めない?
褒められて嫌な気がする状況ってそう多くないと思います。そして、行動しても誰も見てくれない、評価されないということでモチベーションが下がることは、よくあると思います。
そして、褒めるという行為には、お金も労力もほとんどかかりません。言うだけでいいのですから、それ自体は難しくもありません。
でも、なかなかしませんよね。褒めること。なぜでしょうか?
いろいろ想像はできるけど、理解できるのは2つかなと思います。
- 褒めた方がいいと思っていない
- 褒め方がわからない
褒めた方がいいと思っていない
まず、褒めることが必要と思っていないパターン。必要と思っていなければ、しませんよね。
きっとそういう人は、ものすごく強いハートを持っていたか、褒めてくれた人のことを全然意識せず鈍感に生きてきたかだと思います。
誰からも褒められなかったけどやってきた、というのが本当ならば、仕方がない部分もあるかもしれません。それを人に求めるのもどうなのと思うけど、それしか知らないならば仕方がないかなと。
でも、褒められてるのに意識していない、やってもらっているのに人にする気がない、というならば。ちょっと振り返ってほしい気がします。
褒め方がわからない
こっちは、褒めた方がいいと思うけどできてない、というパターンですね。褒め方が分からない人。
なんでもいいから肯定的な反応を示すことだと思いますが、難しいのかなとは思います。「すごい」とか「さすが」とか「頑張ってるね」とか、なんでもいいから肯定的な発言をすること。反応を示すこと。した方がいいと思うなら、やってみて欲しいところです。
他人に求めても……
他人を変えるのは大変です。何を言っても、どう動いても、変わらない時は変わりません。というか、変わることのほうが少なくないでしょうか。
ならばどうするかといえば、自分でどうにかするしかありません。
誰も褒めてくれないならば、自分で褒める。そこに活路を見出したいと思います。
虚しくない?
そう考えた時、チラッと「それって虚しくないかな?」と思いました。でも、そんなの気の持ちようですよね。
「他人に」褒められたいという気持ちは分かります。「自分で自分を褒める」を虚しいと思う人もいるだろうな、とも。
でも、他人の基準に合わせて、褒めるという行動に出てくれるかわからない中で、動くよりも。自分の基準で良いと思うことをして、自分で褒めるほうが。何かを成せる可能性は高いと思います。人任せにしていないので、いろいろと自分でコントロールできる可能性も高いです。
他人にどうこうしてもらう、などというのは「たまたま起こりうる」ことです。それを目的にしたり評価基準にすれば、コントロールが効きません。
「他人に褒められたい」ではなく「他人に褒められたらいつも以上に嬉しい」くらいにしておいたほうがいいのでは、と思います。
自己満足でしか無い?
「自分で自分を褒める」と言うと、「そんな自己満足に浸っても」と言われそうな気がします。ですが、それって悪いことでしょうか?
他人に迷惑をかけるとか、その人の目的に合っていないとか、そういうことならば悪いと思います。ですが、目的のために自分を励ましつつコントロールしていくのは、悪いことでしょうか。私は、良い悪いではなく、何かを成す人はみんなやっていることなのではと思います。
そもそも、自己満足それ自体は悪いことじゃない気がします。人のため、社会のためとか言っても、それをする自分に満足できるから、やれるのではないかと。
自分すら満足させられずに、他人に何かを与えられるのか。とも言える気がします。一番身近な「自分」をまずは大切にすべきじゃないかなと思います。
自分を褒める
ちょっと話が逸れましたが、「自分で自分を褒める」ことって大切かもしれないと気づきました。
では、どうしましょう。どうすれば、褒められるでしょうか。考えます。
口に出して言葉にする
「すごい」「よくやった」「頑張ってる」そんなことを言葉にすることはいいかもと思います。人が見ているところでやると変な人と思われるかもしれませんが、自分で自分に言葉をかけるっていいと思います。
自分が発した言葉を一番聞いているのは自分ですよね。耳から入れることって、大切なのかもしれないと思います。
頭で思うだけじゃ弱いので、口から出して、耳で聞いて頭に入れなおすこと。その一手間を加えることで、何か変わらないかなと思います。
書いて残す
あとは、良かったこととか頑張ったことなどを書いて残すことでしょうか。やはり頭で考えるだけじゃ弱いと思うんです。
日記に「良かったこと」を書くとか、そういう習慣をつけること。自分がどれだけ頑張ったかを目に見える状態にしたら、素直に褒めやすい気がします。
これだけやった、自分は頑張っている。そういう記録は、自信にも繋がりそうです。それは、褒めて得たいことと近いです。
書いて残すこと。たまにそれを読み返したりすること。それも一つの手かなと思います。
おわりに
私は褒められたいです。でも褒めてもらえません。だから自分で褒めます。
それでいいと思います。
他人に過度の期待をしても無駄だし、その期待が自分の首を絞めます。いろいろなことが嫌になるし、人のことが嫌いになってきます。
期待しなければ、その点では誰も不幸にならない気がします。何かしてもらえたら、それは特別なことだと思えばいいんですよね。その方が、してくれるはず、されて当然、というよりも感謝できるし、より嬉しいです。
「他人に褒められたい」という気持ちが強かったなということと、「自分を褒めることを意識していなかったな」という反省から、記事にしました。
自分で何かをやろうとすれば、自分で自分をコントロールするしかありません。最近特にそう思います。なので、もっと自分をほめていきたいです。
私自身は人も褒めるよう気をつけるけど、みんながそうしてくれると思わない。それを求めない。
みんながもっと褒め合う社会になったらいいと思うけど、先ず隗より始めよですね。自分で自分を褒めるところから始めようと思いました。
では、今回はこのへんで。おわり!
こんな時代だからこそ「適当ライフ」を始めませんか?
生活の中に「こういう方向性を持って動く」という柱があると、楽なのかなぁと思います。一部の行為をルーチン化して、決定に思考を挟まないでいい状態を作ることは、精神的なコストの削減に繋がりそうかなという気がします。
ひとつに固執する気もないけど、「何かないかな」と思い探したんですが、私が基本的に既存のもので満足できる性格でないからか、しっくり来ませんでした。
最近は物を持たない方向の話をよく目にするけど、ちょっと求めているものと違いそうですしね。
無いなら作ればいいじゃなーいということで、新たな(探せばありそうだけど)考え方の方向性を提示してみたいと思います。その名も「適当ライフ」。
私も実践できて無い部分多すぎると思うので、まだ考えただけだけど、説明していきますね!
適当ライフとは
適当ライフで検索すると、はてなブログで書かれているブログが出てきて焦りましたが、関係ないです。方向性も違いそうでした。
特に何を見てというわけでなく、私が適当に考えて名づけたものです。いろいろなものと被る部分はあると思いますが、基本的に関係ありません。
適当ライフの柱になる3つの考え方は、以下のとおり。
- 身の丈にあった生活を心がける(適当な生活)
- みんなの幸せを作ろうとする (適当な行動)
- 強いこだわりを捨て柔軟になる(適当な思考)
それぞれ説明していきます。
適当な生活
まずは、「身の丈にあった生活を心がける」というもの。これは窮屈にやれとか上を目指すなではなく、今の自分に適した生活を探そうということです。
お金を持っている人は使いたいものに使えばいい。お金があまりない人は無理せず必要なところを考えればいい。住んでいる部屋が大きければゆったりした家具を買うのもいいかもだし、小さな部屋なら家具を減らすのも手かもしれない。
何にせよ、置かれた状況によって「適当(それに適しているという意味)」な状態は違うはず。決まった何かに合わせずに、自分基準で考えようという考え方です。
今の生活はそうだけど、身の丈を伸ばそうというのも、したければするといいと思います。
あとは置かれた状況が変化した人とかに特に気をつけて欲しいかもしれないですね。周りからの目とかは気にせずに、できる範囲を見定めること、大切だと思います。
適当な行動
次は「みんなの幸せを作ろうとする」というもの。自分だけの幸せでなく、誰かだけの幸せでなく、みんなの幸せを作ろうと考えてみてはどうかということです。
前提として、自分をマイナス状態には置くことはしてはダメです。自分だけが-10で、他の99人が+10だったら合計は+980ですが、それはダメ。それよりは自分も周りも+3で合計+300みたいな方を目指します。
もう少し分かりやすく言葉にすると、「他人も自分も犠牲にしないで生きよう」ということ。誰かの不幸の上に自分の幸せを作ろうとしないで、みんなで幸せになろうよということです。
みんなギスギスしていくのは嫌だから、自分から不幸のループを外れること。不幸を押し付けてこようとする人がいても、同じ土俵でやり返さないこと。無視するなり、他の人達と固まってそんな人以外で幸せになること。
全体の総量で幸せを測るのではなく、自分の周りに不幸な人がより少ない状態を作ろうとしてはどうだろう、と思います。
適当な思考
最後に「強いこだわりを捨て柔軟になる」というもの。何事においても「絶対にこうだ」と思わず、「そうかもなー」くらいでやっていこうということです。
私だけの感覚なのかもしれませんが、強いこだわりは自分を窮屈にする気がします。決まった枠から外れられなくなって、外のものを否定したり、違う人を排除しようと動きがちに思えます。
こだわり自体は悪く無いと思うけど、盲目的に信じたりしないこと。違和感を感じたら一歩離れて見てみること。今まで信じていたものから離れることを恐れないこと。
幸せになるために、強固な信念は必須でしょうか。自分と違う考え方の人がいた時に「それは違う」となるのと、「そんな考えあるんだね」となるのと、どちらの方がみんな生きやすいでしょうか。
みんな好きに生きて、たまには影響されあいつつ、お互いを尊重しあうほうが。より穏やかで幸せなのではと、私は思います。
名前をつけた理由
正直な話、ここに書いたことはそれほど新しい考え方でもないし、そんなの当たり前と言われることも多いのではと思います。
ですが、わざわざ書きました。それはなぜかというと、名前があったほうが採用しやすいと思う人もそれなりに居るのでは、と思ったからです。
焼肉屋に行って注文するとき、カルビ3人前とロース3人前と……とバラバラに頼んでももちろん構いませんが、「3~4人くらいのセット」と書いてあるセットメニューを頼んだほうが楽という人もいますよね。
この記事の冒頭の私みたいに、「何かないかな」と探している人は、セットメニューのほうが楽な気がします。そのための名前と、3つの柱です。
「こうしたい」というものを文字に起こすことは、実現に向けた第一歩だと思います。文字にして読める、見える状態にすることは結構大切だと思います。
私が考えたことも文字にしておけば、同じ考えを持つ人が言葉を考える手間を省けるかも、と考えました。
おわりに
この「適当ライフ」は、他に言われている生き方よりも面倒くさい気はします。他のものはもっと限定的でシンプルで、「こういう時はこう」とより楽ができそうに見えますが、適当ライフは考える必要を常にいくらか残します。
それは、他の考え方が目的地に向かうための自転車だとすれば、この考え方は杖である、みたいな差だと思います。どちらも道具だけど、その実はかなり違うような。
自転車は練習しないとなかなか乗れないし、たくさんのルールがあるけど、乗ったら楽で早い。杖はシンプルで使いやすいけど、楽に早く移動する力はない。どちらを選ぶかは人次第。自動車の人もいれば、バイクの人もいれば、使わない人もいるでしょうしね。
競争社会で、情報化社会な今の時代こそ、「適当ライフ」を始めませんか?
という感じで、今回はここまで。おわり!
「そんなの当たり前!(怒)」って反応で誰か幸せになるのかな?
ブログの記事であるとか、はてブのコメントだとか、Twitterだとか、いろいろと見て回っていると「そんなの当たり前!(怒)」という反応をよく目する気がします。
例えば男性の家事や育児への参加とか、企業の募集の言葉とか(残業代でます!みたいな)、そういう話題の時。「当たり前だ!!!」と怒りを露わにしている人を目にします。
当たり前だというところを否定する気はありません。ですが、そこで怒りを示すことが次に繋がるのか、誰かの幸せを生むのかと考えると、どうなんだろうと思います。
より良い状況を作るために、幸せになる人が一人でも増える状況を作るために、何をどうするのが良さそうか。私なりに考えてみたいと思います。
「当たり前!」では次が見えない
上で書いたように、当たり前であることを否定する気はないんです。ですが、そこを指摘するだけで終わっては、しかもそこに怒りを込めては、次につながらないように思います。
「そんなの当たり前!」と怒ることで得られるのは、当たり前のことを言わなくなることでしょう。そこに「当たり前のことを当たり前にするようになる」という要素があるでしょうか。私にはそれが無いように思えるんです。
現状において普通になされていることで、あえて言う必要がないことならば、その怒り方もいいかもしれません。しかし、現状なされていないことで、珍しくなされた場合の状況であるならば。その発露を妨げることは珍しい例を殺すことにすらなるように思います。
「当たり前」と怒る時、実はその裏には「別の当たり前にされていることが認識されていないことに対する憤り」とか「当たり前の上でやって欲しいことがある」とか、隠れているものがあるのではと思います。
例1
例えば、男性の育児参加を「当たり前だ」と怒る時、その裏に「女性の育児が当たり前で認識されないのに、男性がちょっとやっただけでどうこう言うな」というものが隠れている場合が多いように見える*1、とかです。この時に「当たり前だ!!」と怒るのが最適解でしょうか。そう怒ることで「そうだね、当たり前だったね」と粛々とやってくれるようになる可能性は高いでしょうか。理想じゃなくて、実際にですよ。
そこで「それをいつもやってる妻をもっと褒めなさい」とか「いいことだ、次はこれとあれだね」みたいな反応をすればどうでしょう。少なくとも男性側が「やってみたら怒られた」と撤退する可能性は低そうですし、そこで要求したことが通れば女性側だってプラスじゃないでしょうか。
例2
企業が募集を出した時、「残業代を全額出します!」とか「有給消化率100%!」とか書いてあったとします。それに対して「当たり前だ!!」と怒って何が起きるでしょう。どこに出されているものかにもよりますが、書いたからにはそれに近い可能性は高いはずですよね。では、それを書くことを抑制することはいろいろな人にとってプラスでしょうか?
当然のことでも、良いことならば書いてもらったほうが選ぶ側にもいいし、そう書いてないところが選ばれなくなってくると「当たり前が当たり前になる」のではと思うことはおかしいでしょうか。逆に、書かなくなると選ぶ側が困るし、隠れられる状況が残っていれば「当たり前を守らないでも大丈夫」なままになりそうと思うのは、間違っているでしょうか。
そんなの当然、でなくて「これは無いのか」とか「ここがまずいだろう」みたいなことなら次に繋がると思います。ですが、せっかく出された良いこと(マイナスでないこと)を潰してしまうのは、みんなを幸せにするでしょうか。
「当たり前」という感想を持つのが悪いという気はありません。ですが、それを怒りを持ってぶつけるのはどうだろう、と思います。
当たり前でも良いことは良い
「やって当たり前」と言われる社会よりは、「感謝するのが当たり前」な社会に属したいなぁ。どちらに思うのもどうせお互い様なのだから、少しでも気分を良くする方に動いたほうが幸せの総量は増えるように思うんだよなぁ。
— 瞬希 (@syunki) 2015, 6月 26
それが「やって当たり前」のことであっても、「やったほうが良いこと」ならば感謝したり評価したほうがいいのではと思います。同じようなことで感謝されてない何かがあったとしても、だからそれを感謝しないのではなく、感謝した上でこっちも見ろよと動いたほうがいいように思います。
いままでなされていなかった普通がなされるようになったとして、マイナスから0になったのだから変化はプラスですよね。タダで褒められるなら褒めておけばいいじゃないですか。そこでわざわざ「これが0だから!!」と言ってマイナスに戻る可能性を増やす必要ないじゃないですか。
例1が男性の行為に対する女性の反応についてだったのでそれに対する反応が増えそうな気がしますが、何でもですよ。逆の例を挙げれば、女性がある時「今日はお弁当作ってあげたよ」と言ったとして男性が「家にお金を入れるための仕事で必要なことだったんだから、手伝うのが当然だろう。やってあげたという言い方はおかしい」みたいに言うべきじゃないよねという話です。言い分が妥当だったとしても、そこは「ありがとう」でいいわけで。助かったなら「助かった」でいいでしょという話です。
おわりに
別に、各々の人にわざわざ「あなたはそこはそう言うべきではなくて……」みたいに言いに行く気はありません。それぞれのやり方で別に構わないです。文句をつけることがしたいんじゃないんです。
こっちのほうが良くなるんじゃないの、それがベストな方法なの、という一意見です。私はここに置いておくので、読む読まないも実行するしないも自由です。
インターネットに出てきた「こんなことやったよ」とか「こういう条件があります」みたいな当たり前のことを、わざわざ殺す必要ないというか殺すほうが良くないだろ、という話が主ですしね。こんなことやったよ、が増えれば「さらにこんなこと」って伸びていくかもしれないし、「みんな言ってるよね」と、より普通であるという認識が強まるかもしれないと思うので。潰すなよ……と思った感じです。
怒るのは簡単だけど、それで誰かが幸せになるでしょうか。むしろ不幸を増やさないでしょうか。そんなことを考えた今日このごろでした。
では、今回はこのへんで。おわり!
*1:個人的な感想なので間違っているかもしれませんが、私にはわりとそう見えるパターンが多いです
大学1年生にアドバイスを贈る状況があったなら、何と言う?
大学1年生だった8年前の自分に、もしくは今大学1年生な人に、何かアドバイスを贈るとしたら。何と言うだろう。
おそらく何を言っても深いところは伝わらないし、それほど意味は無いだろうと思う。けど、あえて伝えるとしたら。相手のためだけでなく、自分を振り返るためにそれを考えてみるとしたら。
あなたなら、何を言いますか? 私なら何を言うか、考えてみます。
オンとオフのスイッチを作り出そう
高校時代までで作れている人もたくさんいると思うけど、大学1年生の私にはこれを伝えたいかなと思います。
オンとオフのスイッチを作ること。気を張らなくていい時は、気を張らずにいられるようにすること。目標を立てたらそこに向かって走れるようになること。
今の私が「ずっとオンで走っていたら、あるとき急にオフになり、オンにならなくなった」みたいな状態なので、うまくやった方がいいよと思います。具体的にどうすればというのは今の私にもわからないけど、手を抜くとか息をつくとか、そういうこと大事だと思うので。
頑張れ頑張れと言う人は多いと思うから、頑張らない時を作れというアドバイスはどうかなと思います。
「今」が一番時間がある
おそらくこれは27歳の今の自分にも言えることだと思うけど、「今」が一番時間があるということは伝えたいです。
その時はその時で忙しいけど、たいていは後から振り返ると過去のほうが時間があったように思えるものじゃないかと。あれが終わったら、いつになったら、というのも正しいかもしれないけど、そうなったらそうなったで何か発生しますし。できれば今、無理なら少しでもできそうな時に動いたほうが後悔は少なそうだと思います。
「学生」というネームバリューを大切に
自分がそうでなくなって気づくことだと思うけど、「学生」ってネームバリューは凄いなと思います。
イベントを開こうと言っても「学生」というだけで応援してもらえたり、宣伝でポスターを貼らせてもらえたり、そういうこと多いです。起業しようとした時、学生起業家というだけでちょっとしたパワーがあるように見えます。
学生でないとできないということは少ないけど、学生であるということは利用できる気がします。せっかくなら最大限利用すればよかったなぁと、思った時にはもう学生でないことが多いという。早い段階で気づいたほうがお得な気がするから、教えてあげたいです。
話の種を作るいい時期
学生時代にバカをやった話とか、経験したこととか、知り合った人とか、そういう話をたくさん持っておくと後が楽な気がします。
学生から社会人になったタイミングで周りの環境がガラッと変わると思うので、前の環境の話というのはやりやすいはず。引き出しを増やすことはプラスにはなってもマイナスにはあまりならないのではないかと。
どうしても無理ならしかたがないけど、大学時代にお酒にも慣れておいたほうが楽だという気もします。嫌だとかおかしいとか言っても、なんだかんだで酒の力というのはあるもの。好きなら好きなりに、ダメならダメなりに、自分の限界とか何が好きかとか、どうすれば酔っぱらいを適当にあしらえるかとか、知っておいて損はないと思います。
酒に限らないけど、ある程度までなら失敗できるのが学生という身分だと思います。社会全体を通して最近は失敗できる幅が狭まってきているような気がして、良くないんじゃないかとも思うけど、それでも学生でない人よりは許される幅が広いので。
いろんな人が言うけど、若いうちにたくさん失敗すべきというのは本当だと思います。何でもかんでも炎上だ警察沙汰だと持って行かれがちな現状は、実際どうかと思うくらいです。
やるかやらないか考えたならやれば?
大学1年生の頃に理解していたかは分からないけど、人生は取捨択一なことが多いよなぁと思います。あれをやるためには、これを諦める必要がある、そんなことばかりだなと。
そんな中で、「やる」と「やらない」を天秤にかけられたなら、それはきっとラッキーです。普通は「これをやる」と「あれをやる」の天秤なのに、片方に何も乗っていないならば、乗っている方だけを取れますから。
「やる」と「やらない」で選べるならば、やっておけばいいと思います。内容にもよるけど、ちょっとかじって美味しくなかったらポイしてもいいんだし。手を出したというのと、やらなかったというのでは、話の種としてのパワーも違いますしね。
おすすめの目標
大学時代に目標としたらいいんじゃないかということ、大学生じゃなくなると思い付く気がします。その時は全然思いつかなかったんですけどね。
その中でも私が「これは」と思うのは、「◯◯◯人と知り合う」みたいなことです。◯◯◯に入るのは数字ですよ、インドとかドイツとかじゃないです。
自分が知り合えるかな、と思う人数の5倍くらいを入れるといいと思います。とにかく人と知り合うこと。後から名前を思い出せなくていいから、一回でも喋ったという人を限りなく増やすこと。
大学時代って、動いた人と動かなかった人で知り合いの人数に数百倍とかの開きが出ると思います。数は少なくても一生の付き合いが続くつながりが出来た、というならそれも悪くないけど、母数を増やせばそういう人数も増やせるかもしれませんし。
なるべく多くの人と知り合うというのは、目標として悪くないのではと思います。
おわりに
私なりに考えてみましたが、どうでしょう。自分の大学時代を振り返ったり、大学生活を想像したりした時、思うことは人によっていろいろあるのではないでしょうか?
こういうこと、別に言う必要はないと思います。言ってしまうと嫌がられるかもしれないし、マイナスも多いですから。
でも、考えてみるのは悪くないのではないかという気がします。自分で考えて、振り返って。出てきたことの中に、今からでも遅くないことがあるかもしれませんしね。
大学1年生にアドバイスをするとしたら、あなたは何を言いますか?
では、今回はこのへんで。おわり!
「記事にならない」から「考えるのをやめる」のを防ぐには?
何かを考えた時、「自分で反論できないもの」というのがほとんどない気がする。できるかぎり視点をずらしていろいろ考えれば、反論はたくさん浮かぶ。
あまり反論反論と続けていると、基本的に面倒くさがりな私は、「もういいか」と思い始めてしまう。条件で切り分けて細かく細かく見ていけば、それなりに反論が減る気もするけど、言いたいことは言えないまま終わったりして。3000字くらいで疲れるので、あまり長文は書けないし。破綻するし。
一体どうすればいいのだろう。ちょっと考えてみる。
なぜ反論が浮かぶのか
考えたことを倒すような意見が浮かぶということは、倒れるような考えだったということだろう。それはきっと間違いない。
人に倒される前に気づけてよかったと思うべきか、詭弁を弄してそれっぽく見せかけようと思うべきか、倒れる意見として最後に倒すつもりで書けばと思うべきか。
うーん、どうだろう。
なぜそれを書きたかったのか
私が考えたことを書くときの理由のほとんどは、「書きながら考えたくて」というものだ。手を動かしてテキストにしながら頭を働かせることに慣れているので、そういう考え方をするために書く、せっかくだからブログの記事を書くフォームに書く、そして記事にするという流れ。
そう考えると、途中で考えが変わったり、最初の思い付きが倒れることはそう問題ではない。書けなくなることも、別に問題ではないだろうと思う。最悪は「考えられない」こと。記事にならないという理由で考えることをやめてしまう、というのが最も悪いのではないだろうか。
しかし、考えるという行為のご褒美に「ブログの記事になる」という事柄を置けば、「記事にならねーな」は行為をやめる理由になりうる。
どうすればいいだろう。
無理矢理にでも記事にするために
「考える」ことと「ブログ」を繋げないという手もあるが、現時点ではこの連携はわりと良さそうだと感じているし、ここはズラさないことにする。
せっかくだからブログの記事にするつもりで書きながら考えよう、というのが前提だ。
では、どうすれば記事にすることを最後まで続けられるか。導入の仕方かな、と思う。最初に「こうである」と書いてしまえば、「そうでなかった」と落ち着かせるのは難しい。記事の進行は自ずと最初の考えを補強する方向に進めねばならず、最初の考えが破綻した時点で全体が破綻する。
しかし、「こう考えてみたけど、どうだろう?」と始めれば、補強でも対案でも好きに書ける気がする。最終的に「やっぱり違った」でもいいのではと思う。
まぁ結局、表に出せているいつもの感じだろう。「私が正解を教えてあげます」ではなく「これについて私なりに考えてみます」という書き方をすることだ。
深く考えられなくても、それはそれで
私は物事を深く掘り下げて考えたり刷ることが苦手なのかなと思う。「一般的に」とか「平均から言えば」とかそういう基準でどうかは分からないけど、少なくとも私自身が欲する基準には届いていないだろう。そして、訓練する気はあまりない。というか精神的な余裕が無い。
ではブログで考えたことを書いてはダメなのかといえば、そんなことないと思う。そりゃ「こんなの必要ない」と思う人もいるだろうけど、「人の考える道筋を見るのも面白い」と思う人だって世の中にはきっといるはずだ。私はわりとそういうタイプだし。
ブログなんて適当でいいじゃーんと思う。私のブログに求めるものと、あなたのブログに求めるものが違っていいはず。書くときでも、読むときでも。別に一致している必要性を感じないし、そんなの息苦しい。
深く考えられないなら、浅くてもスタートからゴールまでたらたら書いてみるとか。考えたことを書く必要がなければやめてもいいし、別に浅い考えを置くことだって悪じゃないはずだ。
おわりに
この記事、最初の仮タイトルは「ブログで考えるときの最初の敵は自分」だ。書きたいのに書けないのは誰が悪いのか、頭のなかで否定する私自身じゃないか!! という思いからスタートした。
でも、書き始めてみるとあれよあれよという間に方向が変わって、なぜ書くのか、書く必要があるのか、あるならばどうすれば書けるのか、という風に話が進んだように思う。
なんだか自分に化かされたような気もするが、スッキリしたのでいいのだろう。前の記事でも言った気がするが、書き終えた時にスッキリしたり落ち着けたならば、それは最低でも自分には良い記事だったということだと思う。
人が読んでどう思うかは分からないが、お金をとっているわけでも、読むことを強制しているわけでもないし。適当に読みたいところだけ、気に入りそうなものだけ読んでもらえたら、そして何かしら思ってもらえたらラッキーというくらいのものだ。
最後の最後で本タイトルに決めたので、記事の書き出しすぐとは繋がっていないなーと思う。けどまぁ、今回はしかたがないかな。次回からはもう少し幅をもたせた仮タイトルで始めよう。
という感じで今回はここまで。おわり!
見たくないけど、見えないようにはしたくない。どうすればよいだろう?
私は他の意見を叩き潰さんとするような強烈な意見が嫌いです。
他の考えを持った人のことを想像しようともせず、己とは全く共通項のない別次元の存在だと断じて殺し尽くそうとするような行為が嫌いです。
まぁ、この手の考えは言えば言うだけブーメランになっていく構造だと思いますが、とりあえず私は「嫌い」です。
ひとつ明記しておきたのは、「だから消え失せろ」「だから死ね」とは思っていないこと。そこを勘違いされると「同じ穴の狢じゃん」としか思われないでしょうから。
私にはそんな好き嫌いがあるのですが、そういうものが嫌いだからといって、完全に目につかなくするのもどうなのかなぁと思ったりします。
嫌いなものに対する対応について、少し考えてみたいと思います。
嫌なら見るな?
ちょっと前に盛り上がった気がする話題に「嫌なら見るな」というものがあったように思います。
一時期はわりと立て続けに目に入っていた気がしますが、最近もそういう話題あるのかな?
私は、この「嫌なら見るな」という考え方、確かになぁと思う部分もあるし、ちょっと違わないかなぁと思う部分もあると思っています。
どう考えても気に入らないであろうものを「わざわざ」見て「やっぱり」怒って「私を怒らせた!!」って極端な行動に出る人には、「どうせ嫌なら見なければいいのに」と思います。
怒りの感情を外にまき散らしたいだけにしか見えない人たちには、わりと「わざわざ見なきゃいいのになぁ」と思う気がします。
ですが例えば、人を怒らせようとしているとしか思えない文章があって、それを見た人たちが怒っている時。そんな状態で「嫌なら見るな」と"その文章を書いた人"が言っていると、「ちょっと違わないかなぁ」と思います。
「見られるようにしたのはあなたでしょ?」と思います。「怒らせるような文章を書いたのはあなたでしょ?」と思います。原因を作っておいて、結果を人のせいにするような言い方は、好きじゃないなと思います。
だれでも見ることができる場所に置いてあるものを見ることは、見る側の自由ではないでしょうか。なので、「見ても見なくてもいいんだから、自衛してもいいんだよ?」と見る側には思いますし、「見える場所においた以上は見られることを否定しちゃ駄目じゃない?」と見せた側に思います。
今回は「嫌いなものについての対応」について考えたいので、見る側のことですよね。となると、自衛してもいいんだよという方です。「こういうの嫌いだ」と不愉快に思うなら、「嫌なものを見ないようにする」ことで自衛してもいいだろうと。
ポイントは「自衛すべき」じゃなくて「自衛してもいい」ということな気もします。そこが難しい所ではないでしょうか。
嫌なことは見ないという姿勢はどうなの?
嫌いなものは見ないという姿勢には、「自分の気に食わないものを見ずに見たい意見だけを見るのはどうなのか」という批判がなされることがあると思います。
まぁ、そうだなぁとも思います。自分に都合のいいことだけを聞き続けるという姿勢はあまり格好良くない気がしますし、自分が完全に正しいのだと勘違いしやすい環境を作ることになりそうだと思います。
ですが、では「嫌なものを見て不愉快になることは必要なことだ」と受け入れるべきかというと、それもどうなのだろうと思います。
私だけかもしれませんが、私は攻撃的なものを見たり、不愉快になる何かを見るとわりと引きずられます。それほど長引きはしませんが、直後は考え方が攻撃的になったり、イライラしたり、落ち込んだりします。
攻撃的になったりイライラしてそれを人にぶつけてしまったり落ち込んでしまうことから、他人と自分を守りたいという思いがあります。きっとそれは間違っていないだろうという気がします。
なので「嫌なものは見ないようにしたいけど、見えないようにもしたくない」という状態です。見ないためには、表示させないような設定とかで目につかなくするのが簡単ですが、それはしたくない。見られる状態のままにするならば自分で避ける必要があるけど、なかなか難しい。
明らかに「この文章は私に合わないんじゃないかな」と思うものをスルーするのも、簡単そうで難しいです。そういうものに限って盛り上がっていてチェックすべきなように見えることが多く、盛り上がっていると何度も何度も目につくので、回避し続けなければなりません。
1回2回はスルーしても、何度か見るうちに好奇心に負けて読んでしまい、案の定イライラするということが多いです。
どうすればよいのだろう?
できることならば、強烈な意見は全く見えないようにして、穏やかなインターネットで生きていきたいと思います。
でもそれだと、盛り上がっている新しい話題についていくことは難しいし、引きこもると新しくて面白いブログとかが見つけられないし、穏やかで当然というような勘違いが知らず知らずに入ってきそうな気がします。
一体、どうすればよいのでしょうか。
私にはなかなか難しい問題のように見えるのですが、実はいい回答があったりしないでしょうか。
こうすれば?
答えを見つけたぞ! という記事でないので、わりと投げっぱなしで終わります。いいアイデアがあったら教えて下さい。
私がここまでで思いついたのは、普段見る場所は限定して、たまに厳しい世界に出て探しまわる、という手段。
普段ははてブとかニュースアプリとかは見ないようにして、好きなブログや信頼する人やサイトだけを見る。新しいものを探したくなったら、影響されにくそうな元気な時に面白そうなものを探しまわって、普段見るリストに追加する。
ポイントは、自分が弱ってるなという時とか、影響されそうな状態の時は探しまわらないことです。そして、普段は自分の範囲から外に出ないことです。
これをうまく運用できれば、穏やかな世界で生きられないかと考えました。最新の話題についていきにくいということは解決できませんが……。
うーん、もっといい方法ないでしょうか。
おわりに
フィルタリングするにしてもどう切るか、どう見るかという問題が出てきそうですし、一筋縄では行きそうにないなと思います。
本当は、何でも読むけど悪い影響は受けない、流されず自分で考えた意見を持てる強い人になる、というのが最高だろうけど、まぁ厳しいですしね。
今回の記事は「あそこがムカついた」みたいなことを書きたいと思った記事じゃないです。ネット疲れる…イライラする……と思いながら書いた節はありますが、原因は一個二個のレベルじゃなく十数年の積み重ねによるものですしね。
いろいろと試行錯誤して、インターネットとのうまい付き合いかたを模索していけたらなと思います。
では、今回はこのへんで。おわり!