もしかして、信用もできない他人の話なんて全然気にしなくていい?
私はおそらく、被害妄想というか自分が悪いんだ、自分に言われている、って考えすぎる人なんじゃないかと思います。
Twitterとか見ていても、自分を含む対象に対する意見とかを、自分に言われたことのように考えてしまうことがあります。
それ自体が悪いこと、ではないかもしれないけど、結構きついんですよね。
男は~とか、パソコンばかりやっている人間は~とか、そういう広い対象に対する断罪、って感じのコメントとかを自分に言われたように受け取って、あーだこーだ考えたり、悲しんだり、怒ったり。消耗しているなーって思うことがあります。
そんな私が、さっき思ったんです。
「自分個人に対してじゃない言葉を、自分のことのように受け止めすぎないほうがいい?」
「もしかして、信用もできない他人の話なんて全然気にしなくていいのかも?」と。
お前いくつだよ、今更かよ、って言われるかもしれませんし、いや違う、馬鹿かお前は、って言われるかもしれませんが、ちょっと思ったことを言葉にしてみたいと思います。
では、いってみよー。
別に私に向けて言ったことではない
まず、上で出した例みたいな状態だと、名指しでとか直接とか言われたわけじゃないことで、自分のこととして受け取る必要が無いことって多そうだと思います。
落ち着いて考えれば、やれ「男はこういうところがダメ」って言われてても、「そういう男もいるんだなー」って受け取っていいはずな気がします。
そこで「私はそんなことしてないしするつもりないのに、なんで言われなきゃいけないんだろう?」って思うのは、自分ごととして受け止めすぎで、誰も幸せにならない考え方な気がします。
(「そういう男もいるんだなー」からの「自分はそうならないようにしよう」ってのはいいと思うけど、これって前者ですしね)
まぁ、気づいて変えてみようと思ったところで、なかなか変わるのが難しい気もしますが、受け流せるようになりたいなーとは思います。
そもそも、自分が対象じゃない可能性も結構高いわけですしね。被害妄想に囚われないようにしよう、っていうのと変わらない気もします。
信用できない人の話を気にするかどうか
こちらは自分に向けて言った場合も対象に含まれそうですが、見ず知らずの人とか、信用ならないと思う人の言葉をどれだけ真剣に受け止める必要があるんだっけ、と思いました。
これまで知らなかった人から諫められたとして、「自分のために言ってくれてるんだな」って思って改めようとするのはいいと思います。けど、どんな意見も真摯に受け止めなきゃいけない、って言うのは、悪意や勘違いの存在を忘れている気がするんです。
「こいつの甘いところを刺して傷つけてやろう」とか「こんなおかしい人(←勘違いを元に判断してる)は断罪されるべきだ!」とか、そういう人が混じっても全然おかしくないと思います。それらを全部まともに受け止めてたら、そりゃ参っちゃいますよね。
私はもともと、「厳しい意見をするにしても、言葉遣いを気を付けないと伝わらないと思うけどなぁ」っていう考えを持っています。ですがこれも、意見する人が相手のことを思って、改善してほしいと思って言っているというのが前提で、潰すことが目的な人のことは考えていなかったし、伝える気が無い人がいるかもってことも考えていませんでした。
自分のために投げかけてくれている厳しい言葉は、受け止めたいです。でも、そうじゃないただ傷つけようとか、吐き散らしただけの言葉を受け止めすぎるのは止めた方がいいかもな、と思いました。
そして、自分のことを考えての言葉なのか、違うのかをどう判断するか考えると、発言者が信用できるかとか、よく知らない人に対する言葉遣いとしてどうかとか、そういうところだと思います。
信用できないと思っている人だったり、判断付いてない人だけどこんな言い方はないんじゃないかって思う人の言葉を、受け止めすぎて傷つくのもどうなんだろう、とですね。
批判してくるやつは信用できねぇ、知るか! って話じゃないんです。この誰でも何でも言いやすい状況で、無意味に傷つかない工夫ができないかなと考えた結果でした。
おわりに
この話って、読んだ人にどう思われるのか、興味があるし不安もあります。
当たり前なのか、言語道断なのか、共感なのか、別の考え方がある感じなのか、なんなのか。
私としては、今回こういうことを考えたことで、「自分はもしかして、受け止めすぎて影響されすぎていたんじゃないか?」と思うきっかけになりました。
きつい言葉を受け止めると、受け入れるにしろ否定するにしろ、大なり小なり傷つく気がします。きつくない言葉でも、悲しんだり怒ったり戸惑ったり、影響されると疲れます。
本当によく言う「スルースキル」ってやつ(最近の流れを知りませんが、死語になってないですよね?)って、こういうことかなと。
もしかしたら、以前に似たようなことに「気づいた!」って記事にしてるかもしれませんけどね。あー、なんだかしてそうな気がしてきましたが。。。
ま、長々と書いた、こういうことを考えた今日この頃でした。
では、今回はこのへんで。おわり!
アメリカの大統領選の話を聞きながら、描いたものと思ったこと
今日はアメリカの大統領選の開票をしていましたね!
クリントン候補の優勢という話から一転、トランプ氏が優勢になり、今記事を書いている時点では、まぁトランプ氏に決まっただろうという感じなところです。
これほどまでに報道するアメリカ大統領選って、日本にどんな影響を及ぼすんだろう? と思ったりしますが、まぁそこらへんはいろんな人が書くだろうし、人の記事を待とうと思います。すでにあるかな?
それとは別に、大統領選を聞きながら描いた絵と、思ったことがあるので、それについて書いていきたいと思います。
では、いってみよー。
描いた絵
風刺画とか描いてみたいと思ったけど、書けそうになかったので封止画を描きましたが、思ったより風刺っぽくなったかもしれません。 pic.twitter.com/gPv9dqdkU0
— 瞬希 (@syunki) 2016年11月9日
開票のニュースをTwitterでぼんやり聞いていて、風刺画みたいなものを書いてみたいなと思いました。
政治+絵=風刺画? という発想です。
しかし、私の画力が足りず、発想も特になかったので、風刺画は無理そうだという結論に。でも何も描かないのもせっかく思いついたのに残念だということで、言葉遊びで「封止画」を描くことにしました。
完成品が、上に貼ったツイートにある画像です。
思ったよりも風刺っぽくなりましたが、密閉してる封止画です。ダジャレですね!
思ったこと
呼び方が難しい
大統領選で思ったのは、トランプ候補とかクリントン候補をどう呼べばいいか難しいなということ。人を呼び捨てにはしたくないけど、気楽な言葉の中にトランプ氏みたいな「~~氏」は今一つなじまない。けど、トランプさんというのもなんか変な気がして。そんな風に思ったの、私だけかな?
— 瞬希 (@syunki) November 9, 2016
思ったことの一つ目は、大統領候補の名前を呼ぶときに、どう呼んだらいいだろうということ。Twitterとかでつぶやきたいこといくつかあったけど、この「呼び名」の問題で断念したりしていました。
呼び捨てはしたくないし、~~氏はちょっと固い。~さんもなんか違う。~~候補というのもいいけど、場合によっては合わない時がある。
結局、結論は出ませんでした。とりあえず上のツイートでは候補って呼んでますけどね。他国の大統領候補だからってわけでもないけど、呼び捨ては嫌なんですよね。日本の政治家を呼び捨てするのも、私は嫌いですしねー。
大統領が決まれば「~~大統領」でいいけど、落選した人をどう呼ぶかは難しいかな。議員さんなら「~~議員」とかかな。
難しいです。
逆の意味の信頼感?
あと、トランプ候補が優勢というか勝勢みたいだけど、これまでの悪評は実は日本のマスコミが話題作りに誇張したりピックアップしていることが多くて、実際に大統領になったら「いいじゃん!」ってなる、とかないかなぁという考え、というか願望。
— 瞬希 (@syunki) 2016年11月9日
二つ目の思ったことは、これ。日本のマスコミとして、いつも通りだったらいいなぁみたいな。言いすぎかな。
実はトランプ候補も口が悪いとか以外は良さそうなのに、悪いところをことさらあげつらっているだけ、とかだといいなーと。話題になりそうな要素を取り出して、それだけ並べて印象付けるのはよくやってるじゃないですか。今回もそうだったらいいかなと。
なって終わりじゃないし、アメリカの大統領って長いイメージがあるし、「いいじゃん!」ってなったらいいなと。厳しいですかねー。これまでの報道とかのこともソースは調べてないし、実はワンチャンスあったりしませんか?
おわりに
今日は開票状況だけでなく、その流れからの株価がどうのとか、円がどうのとか、そういう話がずっと流れていました。
すごいなぁと思いましたが、今回はまだ分からないけど、実際アメリカの投票率もかなり低いらしいので、周りの方が注目してる状況だったりするのかな? と思ったりもしました。
この記事を書いている間に過半数を超えたみたいです。トランプ候補が新大統領に決定ってことかな?
この結果がこれからにどう影響するのか、日本にいても影響がいろいろ出てくるものなのか、今のところ分からないけど、いろんなことが良い方向に進んだらいいなと思います。
この記事は夜に投稿するつもりだったけど、この書き方だとすぐ出さないと変かなー。うーん。
現在16時40分ですが、すぐ出そうと思います。せっかく書いたし!(そうやってストックを作らないから、ネタがない時に困る)
という感じで、今回はここまで。おわり!
法律なんて気にしないほうが、楽しく過ごせるのかな?
ブログやTwitterを眺めていて、思うことがあります。「この画像って載せていいんだろうか?」ということです。
インターネット上に無断掲載された漫画やアニメの画像を落として張り付けたりとか、自分でスキャンして無断掲載したりとか、そういうことをしている人ってかなり多いと思います。私の知らないOKラインがあって、それにのっとっている可能性も無くはないけど、たぶん違いますよね?
私はできるだけ著作権とか守りたいと思っているのですが、それでも「楽しそうだな」と思うことがあります。Twitterとかブログとかでリアクションに画像を使いたい、でも自分で書くのは厳しい、みたいなことってめちゃくちゃ多いですし。
法律なんて気にしないって姿勢の方が楽しく過ごせるのかなぁと思うと同時に、なんか変じゃないかなと思いつつ、そんなもんかもなぁと思った気持ちで記事を書いてみたいと思います。
では、いってみよー。
決まりは決まり
私のスタンスは、「ダメって決まっていることはやらない」です。みんなやっているからとか、この程度ならという理由で決まりを破るのは好きじゃないので、できるだけ破らないように気を付けています。
でも、その横で「なんでダメなの、みんなやってるしいいじゃん」と、堂々とルール違反だと思われる行為で遊ばれると、もやもやします。「なんであいつは!」って感じのもやもやじゃなくて、「正しく過ごしたいと思うのってバカみたいなのかなぁ」っていうもやもやです。
でも、性格上、「それなら俺もするぜ」とはなれず、「やっぱりダメだよねぇ」と、堪えている感じです。
罰せられなくてもさ
著作権関係の話をしているところを見ると、結構な頻度で「著作権関係は親告罪だから」みたいな言葉を目にしますが、今回の話とは関係ないと思うので先に書いておきたいと思います。
訴えられないと罰せられないとしても、無断掲載とかしてる時点で決まりは破っているわけですよね。罰せられなければセーフというのも一つの考え方なのかもしれませんが、ルール違反はルール違反だと思います。
決まりを知っていても破る、という行為を許容したほうが楽しいのかもね、という話です。「だからやります」とか「やったほうがいいですよ!」という気は全くないですが。
ガチガチに禁止するのも嫌いだけど
私は、規制を増やすとか、何かを禁止するということが基本的に嫌いな人です。人に損害を与える行為が今の法律などで取り締まれないというならば仕方がない部分もあるだろうけど、今の決まりで対応できるのに新しく狙い撃つ規制をするような流れはあまり好きじゃないです。
あれはダメ、これはダメと新しいものやアイデアに法律などで待ったをかけるのはどうなんだろう、と思います。ヘタに規制したり許可制にすると、そのモノやアイデアの未来を根こそぎ潰すんじゃないかと思ったりします。
ですが、決まったなら、決まっている間は守らなければならないと思います。本当にルールがおかしいとしても、ルール改正のための行動を起こすべきで、無視するのはよくないだろうと思います。
ましてルール自体をおかしいと言えないなら、なおさら守るべきではないでしょうか。考え方が固いかなとは自分でも思うけど、こンな考え方って間違っていますかね?
表現方法に幅がある人を尊敬する
こんな思いを持っているので、私は絵をかけるとか動画を作れるとか、表現方法に幅がある人を尊敬します。すごいなと思います。
まぁ、練習すればって言われそうだし自分でも思うんですが、なかなか厳しいですね。今まで結構取り組んだけど、続かなくて。なんというか表現したいという気持ちはあっても、描きたいという欲求が薄いんですよねー。
あと、フリー素材とか使えばって言われそうですが、その意見は正しいと思いますが、足りません。ネタっぽいアクションをしたい時って、自分の頭の中には「このシーンが使いたい」ってのがあったりしますが、それを素材でどうにかするのは難しいです。
まぁ、それも改変技術とか探す能力とかで補えたりする気はしますが、あとは労力との問題ですね。決まりを破る楽な方法は取らないとしても、決まりを守るための労力とアクションを断念することの比較で、労力がかかりすぎると断念するパターンが多いです。
技術が無くて泣く泣く断念している横で、無断転載でサクッとネタをやられると、という感じですね。あとはルールを守ろうとする自分と、少しでも楽しく過ごしたい自分の間で板挟みです。
おわりに
読んでもらったら分かるとは思いますが、この記事は著作権などを守るべきという立場からの、守るべきだよねという意見の記事です。楽しく過ごすためにルールを破りましょう、って言うような意図は全くないです。
法律なんて気にしないぜ、この程度じゃ捕まらないんだぜ、っていうスタンスの方が楽しく過ごせるのかもなぁとは思うけど、なれっこないしなりたくもないかな、という記事でした。
痛い目見ればいいのにという気持ちも無くはないけど、数が多すぎて全部チェックされたらそれはそれで息苦しそうですし、難しいと思います。
という感じで、今回はここまで。また絵を描く練習でもしようかな……。おわり!
「自己責任だ」は無責任かつ厳しすぎると思うけど、どうでしょう?
「苦しい」と叫んだり「社会が悪いんだ」と叫んだりすると、叩かれるみたいです。ニュースを見たりネットを見たり、リアルで人と話したりしていると、叫ぶ人が悪いと叩かれている場面をわりと目にします。
叩き方は、「○○しなかったお前が悪い」「自己責任だ」「人のせいにして甘えている」みたいな感じだと思います。
まぁ、叫びを見て「うーん、どうなんだ」と思うことは実際ありますし、叩くと表現した側に理がないわけでもないとは思うんです。思うんですが、それでも、言わせてやればいいのに、と思ってしまう私が居ます。
深くも知らない人の叫びを自己責任だと突っぱねる行為について、思ったことを書いてみます。
では、いってみよー。
本当にそうなんだろうか?
ツッコミはいくつかあるんですが、まず「本当に自己責任って言えるの?」ってことです。
例えばニュースに出てきた「今現在困っている人」だったり、ネットで「社会が悪い!」って記事を書いている人がいた時、その人が悪いと断じれる根拠ってあるのでしょうか?
実際のところは分からないことが多そうですが、不幸に不幸が重なって困っていたり、話を聞いたら同情してしまうくらい頑張っているのに、みたいな状況ってありえないんでしょうか。
よくも分かっても居ないのに、苦しいんですって言ってる人に石を投げるのって、どうなんでしょう?
子どもに「知らない人が苦しんでいたら石を投げていいんだよ」って言えるんでしょうか。私は言えないと思うんですが、子どもに言えないようなことをやっている自覚はあるんでしょうか。
弱った人にも完璧を求めるの?
苦しがっていたり、社会が悪いと言っている人って、弱っている人な場合が多いと思うんです。理論整然と社会の構造について論じているとかだと違うかもしれないけど、自分の立ち位置とかについて社会が悪いって言ってたりしたら、まぁ弱っている場合多いと思います。
「○○しないお前が悪い」「自己責任だ」って投げつける人は、苦しんでいるように見えなかったとか、言い方・書き方が悪いとか言うのかもしれないなと想像しますが、それって厳しすぎると思いませんか?
苦しんでいる最中の人に、弱っている人に、人を納得させられる文章を書けとか、叫び方に気をつけろとか、言うんでしょうか。それができないなら叫ぶなって言うんでしょうか。私はそれは厳しすぎると思います。
困ってますとか、苦しんでいます、って言う人に対して、「そんなことはない」って根拠もなく否定して「人のせいにするな」みたいな言葉を投げるとしたら、無茶苦茶だと思いませんか?
ニュースだとかネットの文章だとかだと、発言している人の実際のところって、なかなか分かりませんよね。分からない状態で反応したいなら、せめて発言は信じたらどうかと思うんです。
「弱っているって言うけど、そんなことはない、もっとちゃんとしろ」って無理があると思いませんか。
弱音を吐くことはいけないこと?
書き方が悪いとかじゃなくて、内容が悪いんだという人も居るかもしれません。その程度で弱音を吐くな、みたいな。人のせいにするな、とか。
そういう人がいるとしたら、私は「弱っている人が弱音を吐くことくらい許してあげたらいいのに」と思います。知らない人に「お前が悪い」って言えるくらい元気がある人なら、もっと弱者をいたわってやればいいのではないかと。
実際その人が世界で一番厳しい状況に置かれているわけではないでしょう。でも、苦しんでいる人にとっては、その苦しみは人と比較できないものです。普段元気な人だって、風邪ひいて高熱を出したら、その間だけは他人がどうのとか関係なく苦しむと思います。
弱っている時に何かを人のせいにしたり、苦しいって言うのは、仕方がないことだと思います。ニュースになったって、ネットに書いたって、それで誰かに迷惑をかけるわけじゃないでしょう。ならば言わせてあげればいいんじゃないでしょうか。それとも、その人が人のせいにすることで、苦しんでいると表明することで、誰かが怪我したり死んだりするんでしょうか?
きついからきついって言う。弱っていて、何かを人のせいだと思う、言う。それって体や心を守る普通のことだと思うんです。
そんなものを読ませられても、って言う人も居るかもしれないけど、読めって強制されたわけでもないなら、読んだのは自分ですよね。別に、どうにかしてやれ、っていう気はないです。わざわざ弱っている人の弱音を否定して攻撃するようなことはせず、放っておけばいいのに、と思います。
「自己責任だ」は無責任かつ厳しすぎる
いろいろ書いてきましたが、最後に。「自己責任だ」って言うのは、無責任な行為だと思います。
お前が悪いんだろ、その程度でグダグダ言うな、人のせいにするな、甘えるな、って通りすがりに言うのは簡単ですよね。なんの責任も負わず、ただ弱った人に石を投げるのは簡単だと思います。投げた石が最後の一撃になって死んでしまったとしても、罰せられる心配はほぼ無いですしね。
「あの時そういう選択をしたんだから、その結果になったのはあなたの責任だ」なんて言えるタイミングって、普通そうないと思います。それをよくも知らない人に、ほとんどの場合は一方的に、根拠もなく、投げつける。無責任だとは思いませんか?
そして、そういう「自己責任だ」は厳しすぎると思います。
弱っている人が弱音を吐くことをもっと許すべきだと思います。きついって、困っているって、悲鳴を上げることも許されない社会だから、自殺者が多いのではないか、と思ってしまうくらいです。
別に、「そうか苦しいか、どうにかしてやろう」って言うところまで望んでいません。ただ、苦しんでいる人に追い打ちをかけるようなことはやめたらどうかなと思うということです。
おわりに
みんながみんな「自己責任だ」って言っているわけではありません。そう言う人は一部でしょうし、そう言う人も余裕がない人ではないかとは思います。
とはいえ、余裕がない人同士で攻撃しあう必要はないと思います。それに、もっとみんないろんなことに寛容になったらいいんじゃないかと思ったので書きました。みんなが精神的に余裕をもてて、弱っている人をいたわるのが当たり前の社会だといいなと思ったんです。
書き終えた今、この記事の内容にどういう反応が得られるのか、正直全然予想がついていません。過激なことを書いたつもりはないけど、やっぱり賛否両論になるんでしょうか。
「自己責任だ」とか「甘えだ」みたいな意見を投げることについて、あなたはどう思いますか?
というところで、今回はここまで。おわり!
「叶えたかった」じゃない、「叶える」んだよ!!
久しぶりにはてなブログの記事を書くところを開いたら、お題か何かで『叶えたかった「夢」は何?』と書いてありました。
それを見てタイトルに書いたような言葉が浮かんだけど、浮かんだだけな瞬希です。深い意味は無いです。
まぁ、せっかくなのではてなブログから出ていたお題、『夢と挫折』について書いてみたいと思います。
『叶えたかった「夢」は何?』じゃないのかYO!
では、いってみよー。
諦める夢、諦めなくてもいい夢
夢と一言で言っても、人生のうちに期限があってどこかで諦めざるをえない夢と、いつまでも抱き続けてかまわない夢があると思います。
28歳の私が「プロ野球選手になりたい!」って言うのはまぁ無理がありますが、「いつか富士山に登りたい」と言うのはいつまでも言い続けていいですよね、現時点では別に登りたくもないですが。
年齢制限があったり、到達するためには子どもの頃からのすごい時間の訓練が必要なことだったり、そういう夢はまぁ、諦めてもしかたがないと思います。諦める「べき」とは思わないので持ち続けてもいいけど、辛いなら捨ててしまえばいいと思います。
そうでない夢、いつになってもできることだったり、やる気とか勇気とかがあればという夢は、捨てなくてもいいと思います。捨ててはいけない、とは思わないので、それも辛ければ捨てちゃえばいいと思いますけどね。夢に振り回されてもしかたがないし、うまく使ってやればいいと、私は思います。
2つの夢を間違わないよう
ひとつだけ思うとすれば、上に挙げた2種類を間違うというか、諦めなくていい夢を諦めて仕方がない夢だと思い込むのは、残念な気がします。そう思うことで諦めやすいんだ、というならまぁそれはそれですが、絶対無理だから仕方がないと諦めなくていい夢を諦めるのは残念かなという感じですね。
上に出した例だと、「足を悪くしたからもう富士山には登れない」はちょっと早いと思うということ。諦めずに探せば、より楽に登る方法が見つかるかもしれませんよね。場合によっては、リハビリで登れるところまで回復するとかそういうパターンもあるかもです。
28からプロ棋士を目指すのは無謀だけど、プロゲーマーを目指すのは、いきなり仕事をやめるとかじゃなければいいと思うんです。プロゲーマーになるって夢を持って練習したり大会に出たりとか。絶対捨てなきゃいけないことじゃないと思います。
挫折もいいと思うしかない
とりあえず夢については言いたいこと言えたのでこんな感じですが、あとは挫折ですね。
私は大学時代に、それまでの夢を捨てました。このブログに何をどこまで書いてたか忘れたのでぼかしますが、わりと大転換な感じな挫折でした。「俺にこの職業は無理だな」と悟ってしまって。無理すれば数年はできるかもしれないけど、自分も周りも不幸にするだけかなと思ったんです。
で、大学もやめて、ぜんぜん違うアルバイトを始めてみたり、それもやめて自分でいろいろ始めてみていますが、今のところ挫折時の「俺には無理」という気持ちは変わっていませんし、後悔は少ないです。
全然ないわけじゃないけど、おそらくそのまま進んだほうがよりきつかっただろうと思いますしね。
夢を諦めても
ただ、そのまま進んだ時よりも幸せになりたい、と思うことは多いです。あのまま行ったら潰れてて、挫折して道を変えても潰れた、だと悲しいなと。道を変えたなら、よりプラスになったと思いたいです。
「挫折したからこの出会いがあった」とか、「挫折したからこんなに幸せになれた」とか、胸を張れるようになれればいいと思います。最後に勝てば、なんでもいいのです。どうせ、「挫折しなかったら」なんてifは空想の産物でしか無くて、誰にも分かりっこないのだから、「あっちに進まなくてよかったかな」と思えれば勝ちです。
と、自分に言い聞かせて頑張ろうとしています。
勝てば官軍、自分のルールは自分で作れ!
夢と挫折について、2つの言葉でまとめたいと思います。
ひとつ目は、「勝てば官軍」という言葉。続きもあるけどまぁそれはよくて、人生最後に勝ったと思えたらいいんじゃない、ということです。
ふたつ目は、「自分のルールは自分で作れ!」と。別に誰かの言葉の引用ってわけではないです。意味はそのまま、自分の人生の勝敗を決めるルールは、自分で作ればいいと思うってこと。勝利条件も敗北条件も自由にできるゲームで、なんで負けるんでしょう?
何にもいいことがなくて、孤独で、辛いばかりの人生だったと死にかけで思っても、「最後に食べたご飯が美味しかったから勝ち」でいいと思います。「間際に幸せな記憶が思い出せたから勝ち」とか。
挫折した時点で負けが確定とか早すぎだし、自分で設定できる敗北条件を厳しくしすぎ。勝利条件こそ緩くして、幸せのハードルを下げればいいと思います。
おわりに
最後にタイトルに対応した、とっさの思い付きでない私の考えを書いて終わります。
「叶えたかった」じゃない、「叶える」でもない、「どうあっても幸せ」になろうよ!
ってこと。夢を持つのもそれに向かって頑張るのもいいけど、振り回されずに生きたいです。
では、今回はこのへんで。おわり!
Netflix火花お題「夢と挫折」
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今が当たり前と思うのは格好いいだろうか
ちょっと気の利いた書き出しでスタートしようかと思ったけど、読み返したら全く面白くも上手くもなかったので全消しした瞬希です。お久しぶりでーす。
さて、潜ったまま浮かんでこないものの、死んだんじゃねと思われることもなく忘れられてるというか思い出されないんじゃないかという私ですが(自虐)、とくに問題も感じないので適当にやっていきたいと思います。
書くこと決めてないけど、適当にいってみよー。
インターネットとは何か
答え:知るか
刀を大上段に構えて前蹴りを放った感じですが、私こういうの結構好きです。
まぁ、人がこんなこと書いてても特に感想もない感じだと思いますが。でも、好み的には何か答えられるより上かなと。
私にとってインターネットは居場所だったり救いだったり沼だったりしますが、それって私だけの話ですよね。
同じような思いの人もそれなりにいそうな気がするけど、一般化できるほどではないと思うし、時間によって変化していくものだとも思います。
そこで「自分というものを表現するのに絶好の場所なのです(ドヤァ」とか言われたら、カチンとまでは来ずともスルー推奨リストに予約されるくらいはありえます。他のつながりのある人とかなら対応も変わりますが、初見で合わないかもって感じた人も逃せないほど人が居ないわけでもないですしね。
って感じだなって思いつつ回答を考えると、知るかってありじゃないかなーと。言い方は知りませんでも存じ上げませんでも記憶にございません…は違うか…まぁなんでもいいんですが、答えないのもありだと思うわけです。
もちろん、私にとってはと前置いて答えてもいいんですけどね。でも、そう答えてもらえるのが当たり前みたいになるのはめんどくせーと思います。
親切をあてにすんな
書いてて思っただけなので最初からこれを書こうとか思ってたわけじゃないんですが、思いついたので書きます。
親切をあてにするのやめたら、って思います。
私はボランティアってのが嫌いです。というか、最初からそれらをあてにした計画が嫌いです。
自分がするのは別にやりたくてやる分にはいいし、人がすることにも口出す気ないです。けど、計画段階から盛り込んで、それなしでは立ちいかないようなものはどうかと思います。
みんなで作ろうって感じの、ボランティアだけで成り立ってみんなが満足するものならいいと思うんです。すごく。
でも、そうじゃないものが多すぎませんか?
バイト雇えよとか、まず参加費なりの金取れよってことをボランティアで回すことって、好きじゃないです。
苦肉の策って側面は見えても、常態化しすぎ。当たり前にそんなものでしょってなってますよね。
そうなっちゃうともう、やる方もやる方だって言いたくもなってくるわけで。善意と嫌々の境目が分からなくなってプラスなことって多くないと思うんですよね。やらせる側の短期的な目線ではプラスなところもあるでしょうけど、それでいいんですかねぇ。
ボランティアに限らず
やってくれたら「ありがとう」ってなる方がいいと思います。やって当然、何でやってくれないんだってなるよりも。
昔は良かったとか、本当かぁ〜って思いますが、最近tnxって見なくなった気がするな、とか思っちゃうんですよね。
実際は使わなくなったって方が正しくて、感謝が薄くなってるってことかもしれないけど、そうだったら嫌だなーと思います。気をつけたいなともですね。
教えてもらうとか、話しかけてもらうとか、気づいてもらうとか、何だって当たり前って思いたくないです。思わない方がいいんじゃないかと思います。
いろんなものが便利になって、ハードルが下がって、当たり前になっていく。でもその向こうには人がいて、昔だったらもっと時間がかかっていたそれをすぐ実現できる何かがあって、その何かができるまでにはきっといろんな苦労もあって。
たまたま今ここにいるから、それを当然のように口にする。
それがダメってわけじゃなく、敬意を持ったり感謝したり、そういう気持ちをどこかに持った方が格好いい気がするなって話です。
インターネットをみても私はやっと新参とは言えなくなってきたかなってくらいの「いいとこ取りしてる」側に属すると思いますが、それでもここ数年で入ってきた人が文句だけ言ってるとうぁーって思うんですよね。
こんなに楽になったのになとか、いろいろ苦労あったんだけどなとか。私が私だけが何かやったわけじゃないし、代表面して何か言うのも違うと思うからほとんど何もいいませんが、うぁーって。
善意がどうこうってレベルでも無くなってきた気がするけど、なにごともあって当然と思いたくないなという話でした。
おわりに
今が恵まれてるから文句言うな、っていう気はないしそれは違うと思うんですよ。そう言えば進歩が止まってしまうと思うので。
でも、やってもらうことが当然とか、あって当たり前だろうって思って欲しくないこと多い気がするな、と思うので。
13年前に戻りたいとは思わないけど、13年前があるから今があるんじゃないかなとか、ふわっと思った感じです。
私がやったことなんて塵ほどもないだろうし、言う権利がある気はしてませんけどね。まぁ、自分のブログに書くくらいはお目こぼしください。
という感じで今回はここまで。おわり!
求:運動嫌いが運動するようになる方法
私は運動が嫌いです。
というと語弊がある気がしますが、基本的には動いたりするの面倒だし、スポーツは見るのもするのもほぼ興味ないし、できることならば寝てるか椅子に座ってるくらいで過ごしたい人です。
例外的に水泳は小さい頃から中学くらいまでしていたので好きでしたが、それもここ数年泳いでないし、離れています。
と、運動とか面倒だ~という人なのですが、体力不足が身にしみたり、ダイエットしたかったりで運動した方がいいなぁとは思います。
どうすれば、運動ができるでしょうか? そういうことについて書いてみます。
分かんねぇ
結論から書いておきますと、私には分かりません。分かるならやってます。
目的を持つことが必要なのかなと思うけど、ダイエットというのもなかなか続かないし、何かが上手くなりたいとか早くなりたいとか思わないし、難しい。
特に意味もなく嫌いなことをするって、難しいですよね。できることなら動きたくない人が無目的に運動するのは難しいと思います。
それでも意思が強い人ならばできちゃうのかもしれないけど、私の意思は急いで作ったトランプタワーよりも弱いレベルなので、無理ですね。
となると、どうしたらいいのでしょうか?
目的になりうるもの
目的が必要ならば、それを探すしか無いよなぁということで、思いついた目的・目標になりそうなものを列挙してみます。
- マラソンで完走を目指す
- 長距離歩く大会で完歩を目指す
- 徒歩で旅をする
とりあえず思いついたのはこんな感じ。自転車とかが最近熱い気もするけど、投資できるお金もないし自転車は怖い(車目線で)ので除きました。
マラソンはまぁ分かりやすいし、数年前から歩き旅とか100キロウォークみたいなものに興味はなくもないかなーという感じ。ただ、そのためにトレーニングとして日々走ったり歩いたりするぞ、とはなかなかならなくて。
あと、人にこういう話をすると、わりと「興味があるって程度じゃ厳しい」みたいなこと言われるんですよね。せっかくだから煽ってくれると嬉しいんだけど、なかなか。
興味を持つ→調べる→情報収集→諦める→時間が経つ→以下繰り返し、というのがここ数年の流れです。
なにかしたい、のかなぁ
そもそも本当にしたくないならば、しなければいいと思います。運動した方がいいのは確かかもしれないけど、無理矢理ストレスためてするほどのことかな、と。
でも、何度も調べたりするくらいだし、自分の中に「何かしたい」という思いがあるような気もするんですよね。
深く考えると、「達成感がほしい」というのは確かにありそうですし。成功体験が欲しい、でも同じです。
今までチャレンジしたことがないことをやってみて、成功して、達成感を味わう。そういうことに憧れる気持ちはある気がします。
おわりに
だからやるぞ、とか書けないんですが、なんとなーくやる気が上がった気がします。最大100のところ、5から8になったくらいには。
なにかやるとしたらリアルと密接に関係しそうなので、あまり報告しないかもしれませんが、多分Twitterなりで漏れ出すと思うので、よかったら適当に見てやってください。
うーん、なにかやるかな。やれるかな。
という感じで今回はここまで。おわり!