ごんぎつねなんて勉強しても、社会に出てから意味が無いと言いますか?
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「ごんぎつねなんて勉強しても、社会に出てごんぎつねを読む機会なんて無いから意味が無い!」
という人、居るだろうか?
おそらく一笑に付されると思うのだけど、この「ごんぎつね(を読む)」を「因数分解(をする)」にしてみるとどうだろう。笑う人は減るのではないかと思う。
学校で教えていることについて、「社会に出て使わない」「もっと実用的なことを教えるべき」という言葉をわりと目にする気がするが、私は「ちょっと違うんじゃないかな」と思うことが多い。
教えられること以外にも、例えば行事とか、例えば決まりとか。自分が児童生徒だった時に窮屈感を覚えたことを引きずって批判している人が多いような気がする。
もちろん時代に合わないものもあると思うし、変わることが悪だと思っては居ないけど、まずは「なぜそれが存在するのか」を考えるべきであること、多くないだろうか。
幅広くやるといくら書いても終わらなさそうなので、とりあえず「学校で教えられることの意味」についてちょっと考えてみたい。
学校で教わることが社会で役に立たないという人は
学校で教わったことを社会で役に立てられない人は、おそらくどこで何を習っても、その「習ったことをやる時」にしか役立てられないのではないかと思う。
まぁ、その「役立てられない」というのも教育の敗北と言えるかもなので、確かに教育がうまくいっていないといえるかもしれない。だが、その場合は「役立てる能力が得られていない」ことを批判すべきで、「役立つ知識を与えられていない」ことを批判するのは違うのではないか、と私は思う。
というのも、学校で使える時間は有限だからだ。
と言うと、やれ休みを増やした弊害だ、ゆとり教育がうんたらかんたらと言われそうだが、土曜日を全部授業にしようが休みを一切無くそうが(ありえないが)、時間が有限なことには変わりがない。
有限の時間をどう使うか
時間が有限であることは大前提で、その使える時間で何を身につけさせるかというのを考えると、どうしても「基礎的な知識」と「自力で何とかする力」になってくるのではないかと思う。
「基礎的な知識」とは読み書き・四則計算から始まる「他の知識に繋げるための基礎の基礎」の知識かなと思う。
「自力で何とかする力」とは問題にぶつかった時に対応する力、自分で学ぶ力などだ。こちらは幅広く、結構あやふやだけど重要だと思う。
もしも「今の学校教育ではダメだ、もっと生活に必要な知識を教えるべき」というならば、現状で教えていることのうちどこかを削らないといけないだろう。
となった時、どこを削るのか。数学なんて多くの人には必要ないから削ってみる? 数学に触れ始める年齢が上がることで理系と呼ばれている分野の多くが壊滅的被害を受ける可能性があるけど、いいだろうか。
芸術を学校で教える必要はない? 見る人が減れば作る人も減るはずで、やらなくなった世代以降で国内の芸術作品(絵や音楽も、もちろんゲームもアニメも)がボロボロになるかもしれないけど、いいだろうか。
そうはならないかもしれない? そうだね
まぁ、上で書いたことは悲観的な見方かも知れないが、そうはならないと言えないと思う。
「役立つ知識を与えるべき」というのは、時間が有限である以上どこかを減らさなければならないという点で、わりと難しい。どうしても必要なことを少しだけ足すことはできるだろうけど、あれもこれもとはいかない。
「役立てる能力を身につけさせるべき」というのはまぁ分かるしそうだろうと思うが、なかなか難しい。これまでの教育でも身についている人もいれば、身についていない人もいる。このことは、あなたの周りを見ればわかると思う。
学校で教えられることには、それなりの意味がある。目的もあるし、それである程度うまく回っているという実績もある。
それを誰かの主観的な考えだけで「変えるべき」「変えなければならない」というのは実際どうなのかという気がするし、「変えないと日本が終わる」のではなく「その声に流された時に日本が終わる」可能性すらありそうかなと思う。
より良い教育をと考えるのは分かるのだけど、批判することが先に立ってはならないのではないかと思う。
ゆとり教育について
とりあえず書きたいことは書いた気がするが、ついでに「ゆとり教育」についてもちょっと書いてみたい。
私の考えだけど、ゆとり教育は上で書いた「自力で何とかする力」を付けることに重点を置こうとしたものであると思う。「生きる力」というのがそのものだ。
「生きる力」を身につけさせる試みは必要であったと思う。我々の世代がめちゃくちゃ割りを食ったが、考え方としては間違っていなかったのではないかと私は思う。
教育の内容が時代の流れに取り残されていやしないかと言われることがある。それはある面において確かだろうと、私は思う。
ではどうするかと考えてまず思いつくのは「時代に合わせる」ことだろう。だが、知識も職業も何もかもが増えまくって細分化された現代において、全てを拾うことは難しいと思う。これからの時代の変化に常に寄り添うことも難しそうだと感じる。
となると、時代に合わせないで「各自が時代に合わせられるようにする」のがいいのではないか、となるのではないだろうか。
そうなった時に出てくるのが「生きる力」だろうなと思う。かなり想像も含まれるので正しくないかもしれないが、自分になされた教育がこういう考えのもとでなされたのならば、まだ納得できるかもしれない。
悪かったのは、何?
ゆとり教育は失敗だと言われることが多い。とりあえず方向転換したようなので、成功ではなかったのだろう。
では何が悪かったのだろうか。子ども? 先生? 変えたこと? 方向性?
私は内容だけだと思う。変えたほうがいいはずだという考え方は、正しかったのではないかと思う。生きる力を育むという方向性も、間違っていなかったのではないかと思う。
だが、生きる力を育む実際の策が甘かったのではないかと思う。どうすれば身に付くかのビジョンが統一されず、評価基準も甘かったのではないかと。生きる力が付けば、成功していたかもしれない。それが付かなかった(ように見えた)ことが敗因ではないかと思う。
世代で語ることの愚かさ
ゆとり世代を語る時だけに限らないが、いろいろなことについて世代でまとめて切るような行為は愚かしいと思う。
私が使えないと思うなら、使えないとすべきなのはゆとり世代でなく私だろう。あいつが使えないというならば、「これだからゆとりは」なんて言わずに「あいつ使えないな」と言えばいい。
誰かのダメな点をみんなのダメな点のように言い換えるのは馬鹿げているし、その「みんな」という見方に偏見がこびりついている状況であればなおさらだ。
ゆとり世代の話に戻せば、この世代はただでさえ「ゆとり教育はダメ」「ゆとり世代は失敗作」のように言われ続けてきているのだ。その上、個別の評価まで全部世代に被せられてはたまらない。
その程度で腹を立てなくとも、と思うかもしれないが、そう思えるのは若い頃からずっと失敗作だと言われ続けていないからだと思う。
まぁ、気分を害するヤツが悪いと言い続けるのも止めはしないが、人が気分を害すると分かっていることをし続けるやつが悪いとも思われ続けるだろう。
そこからはどうぞご自由にというやつだ。
おわりに
今の教育に足りないものを考えた時、結構いろいろ思い付く。私が最も思うのは情報教育で、教員の情報リテラシーからガッツリどうにかしないとまずいだろうと思ったりする。
そして、それが人によって税金のことであったり、法律のことであったり、様々なのだろうとも思う。そこが間違っているとは思わないし、そういう考えが生まれることは自然だろう。
だが、「必要だからやるべき」「今すぐやれ」というのは待つべきだろうと思う。そういう思いで今回の記事を書いてみた。
本当に「学校で」教えなければまずい内容なのか。まずいのならば、どこから時間を捻出するのか。何が正解で誰がどう教えるのか。考えなければならないことは多い。
意見の発し方によって極端に見えたり端折っていたりするのも分かるが、今はダメで変えるべきという意見が多すぎるように見えて、気になった。
いつもと同じで上から書きたいことをガリガリと書いてきたので、伝わりにくいかもしれない。おそらく私の書き方が悪いと思うから申し訳なく思うけど、少しでも伝わったら幸いという感じでこのまま出したいと思う。
教育は難しい。施すことも、定めることも、評価することも。
でも、放っておいていいことではないから、よく注意して見て、考えていきたいと思う。
という感じで今回はここまで。おわり!